私も出演している濱口竜介監督の映画「偶然と想像」で、よく話題にのぼるのは、物語終盤のカフェのシーンだろうか。
窓際でお茶をしているつぐみ(私)と芽衣子(古川琴音)の真横を、まさにタイトル通り「偶然」、和明(中島歩)が通りがかる。和明との全てをぶちまける芽衣子によって真相を知ったつぐみはカフェを飛び出す。一人ポツンと残され、顔を覆う芽衣子……と、芽衣子に勢い良くズームインするカメラ。泣いてるように見える芽衣子が顔から手を外すと……というシーンだ。
韓国の映画監督、ホン・サンスが多用することで「ホン・サンス ズーム」とも呼ばれているこのカメラワークの間、中島歩君と私はカメラの下をほふく前進していた。ほふく前進は大げさだけど、私は身長168センチ、歩君に至っては180以上あるので、いわゆる中腰の体勢でカメラ手前のキッチンカウンター下を駆け抜け、元の席に戻って息を整え、カメラがズームアウトした合図を受けたらセリフを言い始める。こちらも全てワンテイク。編集やCGでなはく結構アナログな方法で撮影したのである。
【前回記事】玄理が明かす撮影の裏話「濱口監督の生々しい女子トーク」

こう書くとなんだか大変そうだけど、カフェの裏口に隠れ、助監督の合図を待っている間、私は大いにワクワクしていた。子供の頃、悪だくみをしていたずらした時の気持ち。撮影は2019年の年の瀬に行われたが、「今年一年頑張ったご褒美」と思って現場に行っていた。時間に追われ、NGでなければOKになってしまう日々の中で、「テキストを信じること」をかみしめながら過ごせたのだから。
濱口さんはいつも言う、「不安になったらテキストの力を信じてください」と。
テキスト=文字、つまりそれらの積み重ねである台本を信じるということは、それを書いた濱口さんを信じるということでもある。そして、その言葉たちからまるで引っ張り出される言葉に結びついた私の人生の中の無数の経験と記憶も。(これを想像する時、私はいつもさつまいもの芋掘りを思い出す。)
私は日本語の他に韓国語、英語でお芝居することがあるけれど、いわゆる第一言語じゃない言葉や外国語でお芝居することの一番の難しさはイントネーションや発音ではない。
言葉を思い浮かべること、発することで、0.0001秒の間に生まれるその単語単語に絡みついた無数の経験と記憶が、私の感情を後押ししてくれることが大いにあるのだ。でも、生活を伴わない言語にそれは起きない。
思えば濱口さんはいつも私に言葉を残していってくれる。そして一観客として触れる濱口監督の作品もまた、自分の思考や感情をきちんと丁寧に言語化することの大事さを教えてくれるのだ。

膨らんだお腹をなでながら
監督と仕事するのは短編「天国はまだ遠い」に続いて2本目だが、今なお一番記憶に残っている会話がある。
初めましての時、私たちは下北沢の王将にいた。カフェだった気もするし、なぜか王将だった気もする。濱口さんが私に「玄理さんはどんな人が好きですか?」と聞いた。当時の私なりに一生懸命答えて、「監督は?」と聞き返すと餃子で膨らんだお腹をまあるくなでながら、「優しい人ですかね」と言った。その時、周りの音が止まった気がした。
優しい人はもちろん好きだが、みんな好きだろうけど、でもその時まで私は人に対しても自分に対しても「優しさ」というものを一番大事にはしてこなかった気がする。
ずっと誰かと競争していたかもしれない。小学校受験から始まり、大人になってからはオーディションと、私は人生の大半をずっと競争して生きてきた。単純かよ、と思われそうだが、その時から私は「どんな人が好きか」と聞かれれば「優しい人」と答えるようになった。
今は思うのだ、優しさって、優しい人ってこの世の宝だと。誰もが心の柔らかい部分を持っているけれど、自分を守るためにあるいは何かと引き換えに、優しさを失っていく。厳しい毎日の中で優しさをキープしながら生きるというのは、そう簡単ではないだろうから。
年も私より上の男性にこの表現がふさわしいかはわからないのだが、私の中で濱口さんは愛くるしい人だ。撮影のリハーサル中に、当時配信が始まったリアリティーショー「バチェラーシーズン3」の結末を話したら、監督は笑い過ぎて文字通り椅子から転げ落ちたりしていた。
この後もしかしたら監督はアカデミー賞を取って名実ともに若き巨匠になるかもしれない。それでも、私の中で濱口さんは、愛くるしい人なのだ。皆さんの心の片隅に覚えていてもらえたらうれしい。