新宿2丁目のママが「ブス!」と言うのをためらう不寛容社会の弊害

歳を重ねた人生の先輩方に言わせると、最近の若者は「度胸が足らん」とか「打たれ弱い」と言われるかもしれない。でも、SNSの発達によって、これだけ社会のあらゆる問題に触れる機会が多い若者に、「度胸を持ってワイルドであれ!」と望むことの方が無茶である。

ちょっとした苦言を口にしようものなら、やれ誰かを傷つけてしまうかもしれないから配慮しろだの、やれハラスメントだのとたたかれてしまう。たった1度の過ちで大バッシングを受ける大人たちを見て育った若者が失敗やリスクを恐れ、当たり障りなく生きることを美徳とする風潮に流されても不思議はない。

僕が兵庫県から東京に出てきたのは、今から10年前。上京して真っ先に向かったのは、日本屈指のゲイタウンである新宿2丁目。当時は言葉遣いの荒いゲイたちでひしめき合い、訪れるストレート女性や男性にセクハラなんてお構いなしに食ってかかり、女装家同士がはだしで追いかけ合い、罵声を浴びせあってケンカする姿は日常茶飯事だった。

“配慮の時代”に突き進む日本にあって、そこだけは配慮無用。まさに、ちょっと小奇麗になった日本社会の唯一の無法地帯という感じだった。

ドラァグクイーンはSNSのインフルエンサー

LGBTQという言葉もまだなかった頃、多くのゲイたちは、その時に“普通”とされた生き方を装いながら、週末や夜になると新宿2丁目へ行き、“普通とは違う”ありのままの自分をさらけ出しガスを抜く。日頃のまともであらなければならない鬱憤うっぷんを吐き出せる場だからこそ、「まともであってたまるか!」精神が膨張し、より一層激しい部分が強調されたオカマ文化が根付いていたのかもしれない。

ゲイバーで働く店子みせこたちは過剰なまでのオネエ言葉を使い、女装家たちは逸脱した派手な格好をして、ママたちは毒舌を磨く。決してありのままの姿とは言えないかもしれないが、世間が抱くまともな人物像に近づくことの困難さと比べれば、まともでないことを演出する方が楽なのかもしれない。

「誰かにバカにされるくらいなら、自分からバカにされにいってやる」。それが身を守るすべだと知っている多くの人が集まった街だ。

LGBTQという言葉が一般に浸透するようになり、最近ではそれがおしゃれなものであるかのように扱われるようになった。それに伴って2丁目の雰囲気もずいぶんと様変わりしたようにみえる。当時のどぎつい女装家さんの姿は減り、今では若くておしゃれなドラァグクイーンが増えた。彼女らは笑われる対象ではなく、その多くがSNSでのインフルエンサーだ。出会いに飢えたゲイたちも、マッチングアプリの普及によって減っている。もちろんゲイが集まっているのは変わらないが、今は若年層が程よい強さのお酒と音楽を楽しむ姿がメインだ。

古参のママさんたちも、女性客に「ブス!」と毒を吐くことにためらいを見せるようになった。もちろん今でも、「まともであってたまるか!」精神を貫くお店も残ってはいるけれど、日本社会の変化とともに、ここ10年で街全体が丸みを帯びてきている。2丁目がそんなだから、ゲイをカミングアウトしている僕も、あらゆる面で丸くならないといけないなと実感させられる。

小原ブラスさんのコラムはゲイタウンにも表れる不寛容な社会。逸脱した女装よりも、おしゃれなドラッグクイーンが増えている
写真はイメージです

自らを「オカマ」と呼ぶ理由

先日もテレビの生放送で、「恋愛のご意見番のブラスくんです」と紹介されたとき、うっかり「いや、僕恋愛のことなんて分かんないです。ただのホモですよ」と返してしまった。「あ!言っちゃった」と思ったが、後の祭り。SNSをのぞいてみると案の定、「ホモという言葉は、男性同性愛者を蔑視べっしする差別用語なので、メディアに出る人がそんな言葉を使うべきでない」という、いつものご意見が届いていた。

自分のことを「ホモ」と言ってクレームを受けるのは、これで何回目だろうか。なじみがない人にとっては分かりにくいかもしれないが、「ゲイ」という言葉は男性同性愛者を指し、「ホモ」「オカマ」は基本的にはゲイをさげすんだ言い方とされている。女性同性愛者に対しても同様に、「レズ」「おなべ」などはレズビアンを蔑んだ差別用語とされる。

自らを「ホモ」や「オカマ」と呼ぶゲイは少なくないし、僕もその一人だ。「ゲイ」と言えばいいじゃないかと思うかもしれないが、何だか「ゲイ」という改まった言い方を自分に使うのもやや抵抗がある。誰かにそう言われるのが嫌だから、言われる前に自分から言ってしまおうなどという感覚ではない。

例えば、男性が自分を紹介するとき「俺ってこんな男性だから」と言うよりも、「俺ってこんな男だから」と言った方がしっくりこないだろうか。女性も「私ってこんな女性よ!」と言うより「私ってこんな女よ!」と言うのが一般的だ。

自分の性をへりくだった言い方をしたほうが、すんなりとなじむのと同じ感覚だ。男性が「あの女は…」と言ったり、女性が「あの男が…」と言ったりすれば、相手を蔑んだ印象になるし、ケンカのときに使う「あの野郎!」という言葉が、「あの男性!」ではない理由もそれだ。ゲイにとっては、このへりくだった言い方が「ホモ」や「オカマ」ということではないだろうか。

評価されるべき「考える人」と「おおよそ完璧な人」

結局、言葉それ自体がだれかを傷つけるのではなく、使い方なのだ。使うタイミングや場所によって許容も拒絶もされる。過剰な配慮によって、当事者が身動きしづらくなる例はLGBTQに限った話ではない。世の中にあふれるセクハラ、パワハラ、モラハラなどにも当てはまるケースがある。

セクハラを例に考えてみると、なんとなく「女性の前で下ネタを話すこと」がセクハラと思っている人も多いようだ。別に下ネタくらいへっちゃらという女性もいれば、下ネタが苦手な男性だっている。相手が女性か男性かは関係なく、職場で従業員が望まない性的な発言はセクハラとされる。

だから、発言する内容によっては、適切な場所か、適切な相手かを見極める必要がある。ボーダーラインが曖昧だと考えるのをやめ、とりあえず「女性=下ネタNG」と片付けてしまうのが今の世の中だ。簡単で分かりやすい反面、腫れ物に触るような扱いを受け、男性上司との会話が減ったり、簡単な業務ばかりになったり、職場で居心地の悪い思いをする女性もいる。

なんでも白黒つけたい世の中ではあるけれど、もう少しだけ「考える人」が増えれば、ギリギリ許容できるグレーの幅が広がって、間違いやミスをことさらにあげつらうことがなくなるかもしれない。「完璧な人」ばかりでは、人や街は萎縮いしゅくしてしまうだろう。「おおよそ完璧な人」を認める寛容さがあれば、若者だって無茶をしたり、羽目を外したりして、ワイルドに生きる選択ができるはずだ。

あわせて読みたい

小原ブラス顔写真
小原 ブラス(こばら・ぶらす)
タレント・コラムニスト

1992年、ロシア・ハバロフスク生まれ。6歳から兵庫県姫路市で育つ。「見た目はロシア人、中身は関西人」として、テレビのバラエティー番組やYouTubeで「ピロシキーズ」として活躍。コテコテの関西弁で政治や社会問題を鋭く斬るコメントで注目を集める。コラムニストとして様々な媒体で執筆、ロシア人の目から見た日本の疑問点や違和感を率直につづる。

Keywords 関連キーワードから探す