長男の康太が生まれた2011年頃、「産後クライシス」という言葉はまだありませんでした。
世の中に定着していたのは「イクメン」の方で、僕にも「できる限り家事や育児を手伝おう」という気持ちはありました。
でも、それでは全く不十分だったのです。なぜなら、生活態度や価値観を全く変えない範囲の「できる限り」は、「やれることしかやらない」と同じことだからです。
加えて、僕はもうひとつ、大きな勘違いをしていました。
康太が6か月ちょっとになった頃、志穂が友達と会うために外出し、初めて丸1日、僕一人で康太の面倒をみることになりました。
僕は張り切りました。朝から洗濯と掃除を済ませ、康太と散歩に出かけ、離乳食と自分の食事を作ってお風呂に入れて寝かしつけ、夜の9時頃には全部終えて本でも読みながら志穂の帰りを待とうと考え、ほとんど計画通りにこなせました。
「どうだ」と言わんばかりに大満足の僕。帰ってきた志穂に「やっぱり家事は午前中が勝負だね」などと、ドヤ顔で語りかけます。
そんな僕に、志穂は感謝しつつもどこか浮かない、冷たい視線を投げかけたのでした。その視線の理由が僕にわかるのは、もうしばらくたってからのことです。
2012年秋に転勤が決まり、家族で盛岡に引っ越しました。この頃から、だんだんと僕に対する志穂の言動が攻撃的になります。
志穂は口癖のように「あなたは何もわかっていない」と繰り返すようになりました。そして、「できる限り」のことをやっていた僕も、何かにつけて非難めいた口調で突っかかる志穂に、不快感とともに苦痛を募らせていったのです。
特につらかったのが、何がどうなったら志穂の怒りのスイッチが押されるのか、全く見当がつかなかったことです。
ある休日、康太を映画に連れて行った帰りにスーパーに寄り、頼まれていたかぼちゃコロッケを買いました。
志穂に電話して「今から帰るよ。コロッケも1パック買った」と伝えたところ、返ってきたのは怒声でした。コロッケは、2パック頼まれていたのでした。
「あなたは私の話を、全っっ然、聞いていない!」などとなじられているうちに、頭がぐらぐらしてきました。
いったいなんなの? なんでそこまで言われなくちゃいけないの?
コロッケを買い足して車のエンジンキーを回した時、胸の奥が縛り付けられるような感覚に襲われ、志穂の顔を思い浮かべただけで息苦しくなりました。それから、いつもと違う道を通って時間をかけて遠回りし、やっとのことで家にたどり着きました。
志穂のことが、怖くなりました。
「志穂は育児でストレスがたまってるんだろうな」というくらいの認識はありました。だけど、「自分が理不尽に怒鳴られている」という思いの方が強く、志穂の状態にまで気が回らなかった。
ちょうど世の中に「産後クライシス」という言葉が広がり始めた頃でもありました。
あ、うちも……?
テレビかネットで見て、一瞬そう思ったことは今でも覚えていますが、その後、それを意識して夫婦で何かを話し合ったりした記憶はありません。たぶん、自分たちを客観的に見る余裕が、お互い残っていなかったのだと思います。(つづく)
◇◇◇
読売新聞の政治部記者が、産後クライシスに陥った夫婦関係を見つめ、夫の立場から解決策を探る自らの体験を綴ります。
※記事に登場する家族の名前は全て仮名です。
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