春になって思い出す、あの日のコインランドリー

生湯葉シホの生の声

4月のコインランドリーで思い出すこと。生湯葉さんのエッセー7回目

R不動産のストウさんは口数の少ない人だった。

その日、内見に向かう車のなかではヒルナンデスが流れていて、リモート出演している芸人の部屋の汚さをスタジオのナンチャンがいじっていた。1度目の緊急事態宣言が出た直後で、オンライン越しに人と会話することの新鮮さを、まだ世間もどこか楽しんでいるような空気があった。ストウさんは首都高の下を通るときにだけ運転席からちらりとこちらを見て、「換気してたんですけど、窓閉めますか?」と聞いた。

あけといてくださいと答えると、「そうすね」とだけ言ってストウさんはまた黙った。ほんとすみませんこんなときに、と言い訳のようにつぶやいた声が高速を走る車の音にかき消され、私も黙った。風の強い日で、ワックスで固めたストウさんの髪がなびいていた。

車がアパートの前に着くと、ストウさんはシートベルトを外すついでみたいに、「こんなときに不動産屋に来るかたのほうが大変じゃないですか」と早口で言った。その言葉にどきっとし、風にあおられながら車を降りる。けれどもうストウさんはなにも言わなかった。私がスマホで部屋の写真を撮っているときもストウさんはしゃべらず、ただ、点検するようにトイレの便座を上げたり下げたりしていた。

窓が多く、近くにちいさな川と小学校があって、いい部屋だと思った。初めてなんですけど、ひとりで住むってどんな感じですかねえと私がふりかえって聞いても、ストウさんはまだ便座の上げ下げをしていた。

生湯葉シホの生の声7回目。離婚で一人暮らしを始める部屋を内覧する

すべての店のシャッターが下りた街で

同じ日の午後、バスに乗って友だちの住む街へ行った。 

バス停で待っていてくれた友だちは、顎までずらしていたマスクを口元に戻し、私を見て「おつかれ~」と言った。ほんとすみませんこんなときに、とさっきとまるで同じ言葉をくりかえすと、「だいじょうぶだいじょうぶ、ここんとこ家でどうぶつの森しかしちょらんき」と笑う。とりあえず近くをぶらついて、あいている店がないか探そうということになった。職場の出社日が週1回に減り、そろそろどうぶつの森のなかの暮らしのほうに現実味が出はじめてきたころだと友だちは言った。

幹線道路沿いを歩き、住宅街を抜け、商店街に入っても、あいている店はなかった。都から自粛要請が出ているので当然といえば当然だけれど、ファミレスにも喫茶店にもコンビニのイートインスペースにもまんべんなく張り紙が貼られ、あらゆる店のシャッターが下りていた。わずかに残っていた桜も連日の雨でほとんど散り、ついさっき見てきた部屋のからっぽさを連想するほどに、街にはなにも残っていなかった。近くには公園はおろか、腰を下ろせそうな場所もない。友だちの家にあがるわけにもいかないし、どうしようと途方に暮れかける。

「あ、」

商店街の終わりが見えてきたころ、友だちが古いコインランドリーの前で立ち止まった。なかで大学生くらいの男の子がひとり、乾燥機の前のパイプ椅子に座ってスマホをいじっていた。

「……数分なら許してもらえるかな」

「すぐ出よ」

コインランドリーに入ると、工場のようなスピードでことは進んだ。クリアファイルから離婚届を出し、証人欄を指さすと、「緊張する」と言いながらも名前と本籍地を友だちがスッと書き入れた。そんな字なんだ、知らなかったと思ったけれど、声をかけて字をまちがえたら訂正があとあと面倒そうなので黙っていた。

判子のインクが乾くまで、まわっている洗濯物をぼんやり見ていた。焼きたてのパンのような匂いが室内に充満し、乾燥機のごうんごうんという音が年月を凝縮したみたいに響いていた。パイプ椅子の足のうちの1本に濡れた花びらがくっついていて、桜の可能性が高いな、と思う。先に座っていた男の子が興味ありげにこちらの手元に目をやり、ギョッとした顔のまま固まったのが見えた。ごめんね、初めて見たでしょう離婚届。緑色なんだよ。

ひとり暮らしはたぶん楽しい

きた道を戻りながら、いま夫とお互いが持っていく家具のドラフト会議をしてる、と話すと友だちは笑った。引っ越すの?と聞かれて朝見た部屋に決めてきたんだ、と口に出すと、ひとりになるという実感が自分のなかに突如ふつふつと湧いてきた。緊張のせいで冗舌になり、Switchは夫が持っていくことになったから私が育てたポケモンもう会えないんだよねとか、言わなくてもいいことをべらべらとしゃべり続けた。

バス停に着いたとき、「ひとり暮らしはね、たぶん楽しいきね」と友だちが目を細めて言った。じゃあまたね、今度ごはんご馳走させてね、と手を振りあう。ひとり暮らしはたぶん楽しい。その言いかたはいかにも気を遣っているというより、ほんとうにそう思ったからなんとなく口から出ただけという感じだった。友だちには言わなかったけれど、不安のどん底にいるときだったから、そのなにげなさが無性にうれしかった。

バスのなかでスマホを見ると、ストウさんから賃貸契約に関するメールがきていた。メールの宛名は私の旧姓になっていた。これから離婚するとは話したけれど、契約書類の名義はまだ夫の姓のはずだった。それを見た上で口頭で伝えた名前のほうを書いてくれたのかと気づき、涙がこみあげそうになる。けれどいま泣いたらマスクがびしょびしょになると思い、鳩尾みぞおちのあたりをかばうように手で押さえ、泣きたさが過ぎるのを待った。メールをスクロールすると、「新生活、楽しみましょう!笑」というメッセージが添えられていた。「笑」になんとも言えない気遣いを感じ、「ありがとうございます!!!」と返す。

窓からは無人の街並みと、車がほとんど通らないせいで、のびのびと道路のまんなかでなにかをつついているハトの姿が見えた。信じられないほど静かな4月だった。なんとなく、この先も同じ季節がくるたびに、この窓からの景色を思い出すのではないかという予感がした。

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あの日からちょうど1年がつ。いまふりかえればそのときの予感は半分だけ正解で、半分まちがいだった。

というのが私はなぜかこのところ、離婚届を書くのに入ったあのコインランドリーのことばかり思い出しているのだ。街なかを歩くたびにあのコインランドリーのパンみたいな匂いがフラッシュバックし、春だったなあ、また春がきたなあとしみじみ思う。数分とはいえ場所を借りてしまったことへの申し訳なさもある。たしか奥のほうに靴専用の洗濯乾燥機があったはずだから、おびに汚れたスニーカーを洗いにいこう、といまこれを書きながら思った。

それから、あの日のことなんてすっかり忘れているかもしれないけれど、ストウさんと友だちにはあらためてお礼を言いたい。あのとき、ひとり暮らしってけっこう楽しいかもしれないじゃんと思わせてくれてありがとう。実際に、思っていたよりいまはずっと楽しい。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター/エッセイスト

 1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06