他人の目と闘わない「銭湯服」のチカラ

岡田育「気になるフツウの女たち」

 東京で会社勤めをしていた10年ほど前、しょっちゅう「一人暮らし病」にかかり、週末ひきこもりと化していた。病といっても、私が勝手に呼んでいるだけのもの。輪郭線のない心身の不調、治りかけの風邪がずっと長引いたような具合の悪さのことだ。誰か同居人がいれば声を掛け合って薬を飲んだり病院へ行ったりもできるが、独りで治さなければ、と気負えば気負うほど、薄暗い部屋でだらだら寝そべってかゆを炊くのすら億劫おっくうになる。そんな怠惰で不健康な自分にまた嫌気がさして、じわじわ気分が落ち込んでいく。

 明確な治療法がないこの現代の奇病、私の場合は武蔵小山へ転居することで快方へ向かった。何しろこの街には、銭湯価格で二種類の天然温泉を楽しめる「清水湯」がある。残業続きでぐったり疲れた平日深夜も、漫然と調子が優れず月曜日の再来におびえる週末も、商店街へい出して「湯治」へ出かければ、露天風呂とサウナと岩盤浴とラムネで、大抵のメランコリーはすっきりととのってしまう。(※本物の病気、とくに伝染性のものに罹患りかんしているときは公衆浴場の利用は控えましょう)

 何もやる気が起きず、クローゼットの前で服を選べずに外出できなくなる、という判断力の低下は、抑うつ症状の第一歩なのだそうだ。「一人暮らし病」が併発しやすい典型的な症状でもある。私はあるときを境に、自宅から徒歩圏内へ出る服はいつも同じと決めてしまった。無印良品のカップ入りチュニックにヨガパンツ、あるいはホアナ・デ・アルコのスウェットワンピース。全自動で洗って干してそのまま着られる乾きやすい服に、帽子と眼鏡を合わせ、重い体を引きずって、なんとか外へ出る。

 デートにはNGだがパジャマよりはマシで、銭湯往復には十分な、こうした脱力系衣類を当時、「一人暮らし病」と闘って打ちつための「銭湯服」と呼んでいた。バトルスーツの力を借りて、玄関扉を開け敷居を乗り越えれば、少なくとも銭湯までは辿たどり着ける。帰りにドラッグストアで日用品を買い込むこともできる。半歩だけ、引きこもりから脱することができるのだ。

キャラクターの着ぐるみをまとった老婦人

 海外で暮らす今も、日本帰国の一番の楽しみは、全裸でのんびり楽しめる天然露天温泉だ。先日は東京都内にある、人気の日帰り温泉を堪能した。入湯料千円ほどで丸一日でも過ごせそうな贅沢な施設である。あかすりの予約を入れて女湯ののれんをくぐり、脱衣カゴを確保すると、そこに不思議なシルエットのラウンジウエアをまとった女性がいた。

 小柄で痩せていて、すっくと立つ姿はバレリーナのようだが、若くはない。短くしたグレイヘア、隠そうともしない深く刻まれたしわ、小さな孫がいてもおかしくない年齢と見える。そんな女性が、乳幼児が着るカバーオールのようなモコモコの白い服に、全身すっぽり包まれている。服、というかそれは、着ぐるみだった。頭にかぶるフード部分には、黒くて長い耳が垂れている。ビーグル犬のスヌーピーだ。

 一昔前、渋谷の街中を闊歩かっぽするギャルたちの間で、ピカチュウやスティッチなどキャラクターのツナギを着るのが流行っていた。えて寝間着のような格好で地べたに座り込み、大都会の雑踏を応接間のように我が物としてくつろぐ女の子たち。派手に目立つし、毎日のコーディネートを省力化して、そのぶん顔面のメイクの盛りに集中することもできる。しかしこの湯上がりの女性は、そんな新文化を通った世代とは思えない。

 自分で見つけて買ったのか、誰かにプレゼントされたのか、たまたま懸賞で当たったのか、元ギャルだった娘や孫からのお下がりか、昔から『ピーナッツ』が好きなのか、それとも、ただ家にあったから着ているだけか……? 皆目わからなかったけれど、白い布地が全身真っ白だったのが印象深い。彼女が一定の愛着を持ってそれを洗濯して手入れして、長く着続けていることだけは伝わってきた。

 人懐こくて優しいおばあちゃんというよりは、行儀作法に厳しそうな老婦人、というたたずまいの女性である。たとえ一人暮らしでも、台所では割烹着を、就寝時にはネグリジェを、都度都度ピシッと着付けていそうな、厳格さが美しい人だ。ブランド物のカバンを床に置き、時計を見つめながら車の鍵をもてあそんでいる。自分でハンドルを握って自家用車を運転し、同乗者を引き連れてやって来た人だ。男湯か、アロママッサージか、レストランか、同じ施設の別の場所にいる連れと待ち合わせているのだろう。

衣服にまつわる同調圧力から解放

 クルマを運転して手際よく裸になって、湯冷めしないようワンタッチで着替え、脇目もふらず帰宅する。「なるほど、機能性に特化したこだわりのオールインワン、賢いチョイス……」と思わず見惚れてしまう。いやいや、そんな綺麗事には程遠く、賑やかな複数世帯同居で介護や孫育てに追われ、ぐったり思考停止してひっつかんだ、超どうでもいいダルダル気分の服かもしれない。両極端の可能性。いずれにせよ、彼女が同じ着ぐるみで、銭湯以外の場所へ出かける姿はまったく想像できない。つまりこれが彼女の「銭湯服」なのだ。

 見ず知らずの赤の他人とすっぱだかで同じ湯をシェアする公衆浴場は、衆人環視の広場でありながら、それぞれに自由を脅かされない私的空間の集積でもある。最低限の公共マナーや社会性は求められるものの、巷のドレスコードはみんなでせーので脱ぎ捨てて、衣服にまつわる同調圧力からは完全に解放される。孤独なままで、みんなとつながり、日々の社会的な気負いからくる「病」が癒される場所だ。

 老婦人にとってその着ぐるみは、他へはなかなか着て行けないけれど、幼い頃から大好きなスヌーピーとひととき一心同体になれる、とっておきの一着かもしれない。あるいは、わざわざ他の服を汚すのがもったいないから仕方なく選んだ、一番どうでもいい衣料品かもしれない。どちらでもいい。正解はない。「なんでこんな高齢者が、こんなファンシーな着ぐるみを……?」という勘繰りだって、銭湯における裸の平等の前では、極めて野暮なもの。

 頭をからっぽにして熱い湯に浸かり、もう何も考えたくない……そんなとき訪れるのが銭湯で、そんな日に着るのが「銭湯服」だ。みんな好きなものを着て来ればいい。あるいは、まったく好きでない服を着て来たって、いい。「他人からどう見られるか?」なんていっさい気にせず選ぶことが許される。それが「脱ぐために着る服」、銭湯服なのである。

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岡田育
岡田 育(おかだ・いく)
文筆家

 岡田 育(おかだ・いく) 文筆家。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。米ニューヨーク在住。著作に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、『天国飯と地獄耳』(キノブックス)ほか。最新刊は、大手小町での連載をまとめた『40歳までにコレをやめる』(サンマーク出版)。本連載では挿絵も担当。http://okadaic.net/