「京のかたな」展大手小町ナイト 末兼研究員が講演「名刀の裏側に注目!」

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 大規模な刀剣の展覧会「みやこのかたな 匠のわざと雅のこころ」(京都国立博物館、25日まで)で先ごろ開かれた夜間貸し切り鑑賞会「OTEKOMACHI(大手小町)ナイト」では、イベントの目玉として、同博物館主任研究員の末兼俊彦さんが講演を行いました。末兼さんは、展示の見どころなどをユーモアを交えながら語り、参加した刀剣ファンは熱心に耳を傾けていました。

京都の刀剣の歴史

 今回の展覧会は、1997年に東京国立博物館で開催された「日本のかたな―鉄のわざと武のこころ―」以来、21年ぶりに国立博物館で開かれた大規模刀剣展覧会です。

 末兼さんは東博での展覧会を見に行ったそうで、「誰もいない貸し切り空間が延々続く、大変ぜいたくな展示でした。そのときから『もう二度と(刀剣の)展覧会はできないだろうね』と言っていたんです」と打ち明けました。

 今回の展覧会は、京都(山城)の刀に焦点を当てています。末兼さんによると、「山城物」とは、「ただただ、山城という地域で作られているということ」なのだそうです。「最近、私は方々で『くたばれ五箇伝ごかでん』(大和、山城、備前、相州、美濃の5か所の主生産地)と言っています。なぜかというと、これだと製作地域と技法があたかも最初から最後まで一貫しているような言い方になってしまうからです。ですが、そんなことはないのです。製作地域と、製作技法や作風は必ずしも一致しない。一致するとすれば、『粟田口派の工房』というように、その派の中での連続性であるということです」

 末兼さんは、今回の展覧会を「空前絶後」という言葉で表現しています。「まさしく空前というか絶後だと思います。もう、ないと思います。『次に(このような展覧会が)あったら行く』って、絶対ないと思います」と末兼さんが話すと、会場は笑いに包まれました。

 「我々、モノから歴史を語る立場からいうと『(日本刀が誕生したのが)10世紀っていうのはちょっと無理じゃないか』って最初からわかっていました。ですが、文字に10世紀と書いてあるので10世紀と言うしかなかった。最近、考古学で目覚ましい進歩があって、10世紀というのは無理であろう。やはり、11世紀も無理で、12世紀というのが、いわゆる日本刀様式――片刃で湾曲していて、さらにしのぎ作りのような立体構造になっている――というのが現実です。そこから始まって、鎌倉、室町、桃山、江戸、そして現代というのが今回の展覧会の流れです」と語ります。

 展示は「京のかたなの誕生(平安時代)」からスタートしますが、まずはじめに思い浮かぶ刀剣は「宗近むねちか」です。「“山城鍛冶の祖”と呼ばれてますが、なぜかというと、これより古い人の名前が残ってないからなんです。おそらく、日本刀様式でない刀を鍛造する人はいたはずですが、作品に銘を入れて、それが残っている人は宗近しかいないので、便宜上、宗近を“山城鍛冶の祖”と呼んでいます」とのことです。

講演を熱心に聴く参加者

 末兼さんによると、その後、刀剣の歴史に影響を与える“キー・パーソン”となるのが、後鳥羽天皇(1180-1239)。三種の神器がないまま即位したという逸話や、“国を治めるに足る霊力のある神器がないのであれば作ろう”という天皇のポジティブな考え方を紹介し、「今までの歴史書などでは『刀が好きだから』というザックリとした書き方ですが、日本を統治するシステムの重要なパーツとして神器が必要だったということを(後鳥羽天皇は)理解していたので、刀を作ろうとなった。天皇自ら刀を作らざるを得なかった」と、刀剣の歴史における後鳥羽天皇の重要性を強調しました。

 「重要文化財『銘尽めいづくし観智院本かんちいんぼん)』によると、御前鍛冶と呼ばれる名人を方々から呼び寄せて、輪番制の刀鍛冶グループを作って刀を作った、という伝説が残っています。そして、菊花紋が彫られていますが、これは菊を好んだ後鳥羽天皇が自分の作の印として刻んだという伝説があります」と説明。

 天皇と一緒に作刀を行った刀鍛冶の社会的地位も上がったため、「庶民ではなくなった刀鍛冶の仕事をさげすむこともできなくなった。そして、山城守やましろのかみ筑前守ちくぜんのかみなど、地方長官の名前を名乗る刀工が出てきた。その結果、今のモノ作りにつながる、『モノを作ることは貴いことなんだ』という文化が広がったのです。そういった意味でも、自ら焼き刃をいれて刀を作った伝説を持つ後鳥羽天皇の存在は、日本におけるモノ作りの根幹になっているのです」と熱く語りました。

 今回の展覧会の見どころの一つで、見学者の興味を引くのが粟田口派の作品の数々です。粟田口派の全貌がつかめるように、その刀剣が勢ぞろいしています。末兼さんは、先日、NHKの番組で、粟田口派が“戦隊ヒーローもの”のように紹介されていたことに触れ、「『粟田口6兄弟』と言いますが、本当に兄弟かどうかはわかりません」と話し、参加者の笑いを誘いました。

 鎌倉時代後期になると「らい派」と呼ばれる刀工集団が京都に生まれます。末兼さんによると、「後発のジェネリックメーカーみたいなもの」なのだとか。「後発で出てきたため、何らかの新たな自分たちだけの“売り”を付けないと、刀剣が売れないんですよ。先行者はやはり強い。特に粟田口派はめちゃめちゃ強い。なぜかというと、日本で一番偉い人と作っているからです。来派はおそらく武士を販売相手にしていた。なぜかと言うと、粟田口派と比べ、来派の刀は全体的に豪壮なものが多く、身幅があって、かさねも厚い。どうやってブランディングして売ったかというと、『我々は舶来品です』」としたんです。当時の刀工たちの生き残り戦略が見え隠れして面白いと思います」と説明しました。

 来派は、販売相手の武士が多いため規模が大きくなり、日本各地に分派を作りました。「彼らの移動と前後して、京文化を携えた工人たちが地方に展開した結果、地方文化が花開きました。そういう意味で、日本文化の中でも、来派は重要な立ち位置にいます」と末兼さん。

ライトアップされた明治古都館

後期展示の見どころ

  後期展示の見どころとして、末兼さんは、国宝「平冶物語絵巻(六波羅行幸巻ろくはらぎゅこうのまき)」を挙げ、「幽閉された二条天皇が脱出を図るという、『ミッション・インポッシブル』みたいな話」と表現します。第1段に描かれている、天皇と中宮が乗る牛車のすだれをはね上げて、中を調べる武士たちの描写を詳しく説明しました。

 もう一つの大きな見どころは、国宝「三日月みかづき宗近」と「圧切長谷部へしきりはせべ」の「裏」が見られるように、会期のラスト2週間のみ、展示方向を変えていることです。

 「なぜかというと三日月宗近に代表される『宗近』のうち、『三条』と銘が入っているものは全部『裏銘うらめい』だからです。普通、刀を装着するときに、自分の体の外側に銘がくるようにします。ところが『青江』という備中の刀鍛冶の一派や、宗近の三条銘に限っては、なぜか逆方向に銘を切っている。ですから(三日月宗近を所蔵する)東京国立博物館で展示するときも、銘が見えるように展示するので、いつも裏が出ているんです。今回は、展示方向を変えることで、 “いつもと見えていない方が見えている”という形になっています」と末兼さんは説明しました。