親戚も友達も…人づきあいは“付かず離れず”

岡田育「40歳までにコレをやめる」

 世の中には、親戚との交流をまったく苦痛に感じない人たちもいる。うちの親や弟妹たちも、お中元やお歳暮や冠婚葬祭のあれこれをこまめに贈り合っているようだし、車を出したり犬猫を預かったりして、育児や介護の負担も分かち合っている。愚痴もしょっちゅう聞くが、なかなか楽しそうだ。私はといえば、彼らが循環させているそうしたサークル・オブ・ライフからは外れて久しい。

 5年ほど前、ウエディングドレス姿で記念写真を撮ったらそれが無断で複製されて、親名義の年賀状の図案に使われた。「嫁き遅れの長女がとうとう片付きました!」というような手書きの一文を添えて、親戚じゅうにバラまかれたようである。さまざまな意味で「これで最後だな……」と思った。挙句に海外へ転居したので、もう何も求められず何も期待されていない。いきなり旬の野菜が届いたりもしない代わり、御礼状をしたためる必要もない。平和だ。

 我々夫婦は子供を作る予定もないし、今後は親戚づきあいをやめて、二人だけで生きていきたいと思う。「やめる」といっても消極的なもので、別に絶縁するわけではない。日本一時帰国のたび、年2回ほどは実家へ顔を出す。一年365日のうち、2日くらいなら一緒に過ごしてもいいだろう。そう考えると、家を出て別個の人生を歩む人間が盆と正月だけ田舎に帰省するシステムは、なかなかうまく設計されている。そこを目掛けて収斂しゅうれんしていくべき最小値、という意味で。

薄くて弱い大人の人間関係

 今回の日本帰省時、実家の住所に届いた私宛ての郵便物を受け取ると、高校同窓会からの封書が紛れていた。卒業から20年経ったので同窓会費を支払うようにと振込用紙が入っている。送り主の同期幹事、三人とも名前に見覚えがあるが顔を思い出せない。気になるお値段は、10年分で2万5千円。高すぎず安すぎず、これを払えば向こう9年は更新通知という名の追加請求を受け取らずに済むと考えれば、先払いがお得に感じられる額だ。

 何かに似ているな、と思ったら、親戚の結婚式に包むご祝儀だった。新郎が誰だかも知らない、新婦の顔もよく覚えていないような結婚式に、とりあえず金一封包む。包めば平和な関係が維持される。かつては毎日会っていたのにもう20年会っていない高校時代の学友たちの共同体なんて、ほとんど遠縁の親戚のようなものだ。スピーチのマイクを回されても何を話せばいいのかわからないが、沈黙をお金に換えて細く長い交流が続く。

 そうやって、疎遠になった親戚と、疎遠になった元クラスメイト、疎遠になった元同僚、疎遠になった夜遊び仲間、あるいはさっき銀行窓口ですれ違った見覚えはあるが見覚えしかないご近所さんとの区別は、どんどん曖昧になっていく。たとえば「金貸してくれ」と頼まれたとき、子供の頃から知っている相手のほうが財布の紐が緩くなるだろうけれど、本当に実際ちゃんと返してくれる確率は、今知り合った赤の他人でも、じつは大差ないのかもしれない。

 幼い子供の頃には、学校の友達は学校の友達、塾の友達は塾の友達、家族は家族、親戚は親戚、ご近所はご近所、それぞれの線引きが今よりハッキリしていた。毎日顔を合わせている間柄なら、さほど親しくなくても記号的に「仲良し」と呼ばれていた。一緒に登下校する関係ともなれば、どんなに煩わしくとも、いきなり関係を断つことは難しい。我々の人生は、自発的に関係性を維持する努力を一度もしたことがないような相手に取り囲まれている。それが「人づきあい」なのだと思い込まされる。

 でも、大人の人間関係というのはもっと薄く弱いもので、維持するためには不断の努力を必要とする代わり、ふっつり自然消滅させていくこともできる。「友達づきあい」「親戚づきあい」「ご近所づきあい」といった細かな分類ラベルを一つ一つ剥がして、曖昧にぼかしていくこともできる。久しぶりの再会を喜びながら。こまめに連絡せずにいた気まずさを感じながら。かけがえのない懐かしさを覚えながら。都合の悪いことは忘れながら。続けていくことができる。あるいは、督促が来る前に無言で同窓会費を払ったりしながら、携帯電話を水没させてアドレス帳を失ったフリをしながら、そっと退場していくことも許される。

親戚との新たな付き合い方

 米国に単身赴任していた従妹いとことニューヨークで会ったとき、SNS上で見かけた従弟いとこに声をかけて東京で食事をしたとき、不思議な感慨に襲われた。名目上は30年近くも仲の良い「親戚づきあい」があるはずなのに、我々の間には、個別に共通する話題が何一つない。空疎なものだ。おそるおそる手探りでゼロから積み上げていった話題は、好きな酒と料理、仕事への情熱、最近観た芝居、そして「親世代から親戚づきあいを強いられるの、ちょっとウザい」という話など。

 自分自身で設計したわけでもない家系図の中で、たまたま自分と近くに居たというだけの、歳近い人々。血の繋がった者同士は仲良くしなくちゃいけないものだ、とガミガミ言われるたびに、感情がげ、興味がせ、たまの宴席で挨拶するだけの関係が続いていた相手だった。親の同伴無しに会うのだって初めてだ。いとこ同士の再会というよりは、後輩のOG訪問か何か受けたような、まるで初対面の気分だった。

 「絶縁」だとか「勘当」だとか、そんな時代遅れの苛烈かれつな言葉を持ち出さずとも、徐々に少しずつボリュームを下げて、親戚づきあいを「やめる」ことはできるに違いない。たとえば、彼や彼女の自分との続柄を忘れ、新規に連絡先を登録し合い、個別にまったく新しい人間関係を築くよう努めることで。「苦手な親戚とは、無理してつきあうことはない」と態度で示しながら、それでも連絡の途切れない縁浅からぬ相手とは、腐れ縁の古馴染なじみくらいの距離感で、付かず離れずの関係を保てたらよいなと思っている。

 人に生まれて社会で生きる以上、すべての「人づきあい」を断つことはできないが、それぞれに特別な意味を持たせたり、過剰な期待を抱いてがっかりしたりする、そんな一喜一憂を和らげていくことはできるだろう。

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岡田育
岡田 育(おかだ・いく)
文筆家

 岡田 育(おかだ・いく) 文筆家。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、二村ヒトシ・金田淳子との共著『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。最新刊は「天国飯と地獄耳」(キノブックス)。現在は米ニューヨーク在住。このまま生きると、2020年に40歳。http://okadaic.net/

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