「料理をしない=家事ができない」同一視される不思議

岡田育「40歳までにコレをやめる」

 私はあまり料理をしない。独身時代は食べたいものを食べたいときに、好きに作ることもしていた。献立がひらめいたらスーパーであれこれ買い込み、狭い台所で工夫しながら、新鮮な食材をおいしい食事へと変えていく。一人で外食すると高くつくし、気楽だが、味気なく感じることもあるし、休日に時間をかけて自炊するのは、よい気分転換になっていた。

 といっても、実際そんな充実感に浸れることはごくごくまれだ。私が台所に立つ理由の大半は、気まぐれに買った食材の余りを使い切って保存することだった。冷凍庫にニラと白菜を収納するスペースを確保するために冷凍ごはんを消費するとか、ごまドレッシングの賞味期限がやばいので大量に温野菜を茹でるとか、いただきもののりんごを腐らせぬようにさっさとジャムにしてしまうとか、いつ買ったか忘れた卵を慌てて醤油漬けにするとか、そんな調子である。

 捨てるにはもったいない、という消極的な倹約精神だけで、一向に味の安定しない肉野菜炒めだの、闇鍋みたいなカレーだの、逆に何を入れても同じ味になる卵とじだの煮物だの、命名する意欲もわかない代物を一人前作っては、テレビを観ながら無言で食べる。その虚しさに洗い物の手間まで加えると、高度に発達した日本の外食産業の偉大さが身にしみる。ワンコインで30品目のコンビニ弁当が買えて、ほかほかの牛丼に味噌汁とサラダまでつけられるこのご時世、なんで家でこんなことしているんだろう。

 料理上手な人たちはみな「自炊は節約にもなる」と言うけれど、大家族で鍋を囲んだり、毎朝お弁当を詰めたりするのと違って、不規則な一人暮らしだとなかなか実感が薄かった。食べたくて作ったあさりの酒蒸しの翌日に、食べたくもないボンゴレスパゲッティを作らざるを得ない不自由な状況は、果たして経済的と言えるのか。高くついても、味気なくても、気楽なのが一番じゃないか。と、また一人で飲みに出てしまうのだ。

高すぎる「毎日おいしい食事を作る」価値

 そうして雑談の流れで「得意料理は?」と訊かれ、「私、あんまり料理しないんですよね」と答えると、しん、と沈黙が流れる。「……全然しないわけではないんでしょ?」と食い下がられて、あの名も無き肉野菜炒めや闇鍋カレーを思い浮かべる。上げ膳据え膳だった実家での生活や、人を呼んで手料理をふるまうのが趣味という友人たちの豪奢ごうしゃなおもてなしも。「いやぁ、自分用に作るだけで、私には得意料理なんて、ないですよ」と言うと、会話は別のところへ流れていく。

 流れていった先で、思ってもみない余波に行き当たる。たとえば人前で「こいつはひどい汚部屋に住んでるんですよー」と指さして笑われる。「見てきたように嘘言わないでください、うちに来たこともないでしょ!」と否定すると、「でも、家事が苦手って言ったじゃないか、炊事すらしないんだろ?」と驚かれる。「あんまり料理をしない」が次々に連想の波を引き集め、いつの間にか「汚部屋住まい」という噂の大津波となって返ってくるのだ。

 取れたシャツのボタンをつけ直すとか、靴の汚れを落として磨くとか、そうした他の家事と同程度には、私だって、家の台所で調理することはある。ところが、下着をこまめに手洗いしても、決められた曜日にきちんと分別してゴミを出しても、ぴかぴかになるまでユニットバスを洗っても、飾り棚を自作しても観葉植物を育てても、ただ「料理をしない」と言うだけで、「まったく家事ができない」と捉えられてしまう。なんとも不思議だ。「毎日おいしい食事を作り、いずれはその腕を家族のために振るって、栄養バランス満点の食卓を彩る」ことの価値ばかりが、なぜか異様に高すぎる。生活に必要とされるさまざまな営みの総称「家事」の実態と、あまりにもかけ離れているだろう。

 そう思って憮然としていると、「だから結婚できないんだぞ!」と頭ごなしに脅されたりもした。私は五年前に結婚したのだが、今もあんまり、料理はしない。このところ、朝はコーヒーをれて果物やヨーグルト、夫婦とも在宅で仕事する日はランチも家で摂り、夜は外食に出るのが定番だ。昼食のメニューは、外ではなかなか食べられない、あっさりした薄味の和食が多い。台所の主導権を握るのは夫のほうで、私はもっぱら洗い物担当である。

自炊はいつでも「やめられる」

 夫は結婚前、ほとんど自炊したことがなかったという。ところがある日、高いくせにちっとも美味おいしくないランチセットを食べて憤慨し、「こんなものに金を出すくらいなら俺が作る!」と、いきなり初心者向けの料理書を大量購入し、だしのとり方から勉強を始めた。必要な調理器具や調味料もすべて買い揃え、コツコツ練習して、あっという間に私よりハイレベルな「得意料理」を増やしていった。

 生まれて初めて薬膳カレーに挑戦するためにまずスパイスラックを買い、有機野菜の店でびっくりするほど美味しくて高価なトマトなど仕入れてくる。昨日はキヌアを炊いていた。私の闇鍋人生とは大違いだ。ところがレシピに「ケールの茎を使う」と書いてあると、切り分けた葉の部分をごっそりゴミ箱に捨てようとしたりする。慌てて奪い取り、横で炒めてもう一品作る。鶏を茹でるのは夫で、茹で汁を雑炊にするのは私。一人暮らしが二人暮らしに変わっても、私の料理は相変わらずの廃棄物処理である。

 後片付けの面倒な揚げ物やオーブン料理はしないし、惣菜のデリバリーもしょっちゅう頼む。二人とも外食が大好きで、本当は評判の飲食店を探し回るほうが楽しい。すっかり腕を上げた夫も、料理をするのはあくまでカロリーコントロールと健康維持のため、「もし近所にとってもおいしい薄味の和定食屋ができたら、きっと自炊を『やめる』だろう」と言っている。

 大人になってから趣味の料理に開眼した夫は、とても楽しそうだ。食べたいものしか買わず、作りたいものしか作らず、無駄が出ても平気。その姿を見て、独身時代の自分との決定的な違いに気がついた。冷蔵庫を一掃するための炊事をちっとも楽しめなかった私が、それでも毎回スーパーで大量に食材を買い込んでしまっていたのは、なぜか?

 自炊とは「毎日する」べきものだ、と思い込まされていたからだ。何がそう思わせていたのか?

 強いて挙げるなら「だから結婚できないんだぞ!」の呪いだろう。毎日毎日ずらりと手料理の並んだ一家団欒だんらんの食卓を囲むことこそ最大の幸福。そんなプレッシャーから解放されてみれば、もっと「気楽に」料理することができるのだった。

【あわせて読みたい】
委託するのに罪悪感?「家事」という言葉に連想すること
「整理整頓」能力レベルに応じた暮らし方
人類はなぜ時代が進んでも虚礼を繰り返すのか?
名刺に電話番号を載せなくなったワケ

岡田育
岡田 育(おかだ・いく)
文筆家

 岡田 育(おかだ・いく) 文筆家。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、二村ヒトシ・金田淳子との共著『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。最新刊は「天国飯と地獄耳」(キノブックス)。現在は米ニューヨーク在住。このまま生きると、2020年に40歳。http://okadaic.net/

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

天国飯と地獄耳 [岡田育]
価格:1620円(税込み) (2018/6/4時点)