誰が奪った?化粧せず「ブス」として過ごす自由

岡田育「40歳までにコレをやめる」

 「化粧をやめた」と吹聴して回ると、「化粧しなくても十分に綺麗だからでしょう」と言われる。「すっぴんが許されるのは美人だけだ」と言われたこともある。発言の主は、表情豊かで目鼻立ちの整った女性だった。この人は素顔も美しいに違いない、と見つめ返していたのだが、きっと絶対に見せてくれない。彼女が化粧をしているのは、自分を美人でないと思っているから。でも、私が化粧をやめたのは、自分を美人だと思っているからでは、ない。

 すっぴんで街へ出てみると、地下鉄の窓やショウウィンドウ、トイレの鏡に映った自分の顔が、思った以上に冴えないことにビビる。覚悟していた以上に垢抜けないことに震える。考え事をしながら歩いているときはとくにひどく、「誰だこの仏頂面の不機嫌なブス」と見ると、目が合うのは自分自身である。慌てて、意味もなく口角を上げてみたりする。私以外に誰も見ていやしない、自分の鏡像に向かって。

 落ち込まないと言えば嘘になるけれど、「だけどまぁ、今日の私は美人でいる日じゃないから、こんなものだろう」と、自分で自分を許すようにしている。私が化粧をやめられたのは、自分の容姿について、この寛容さを獲得したことが大きい。地球人類を恒久的な美人と不変的なブスとに二分するのではなく、「人間誰しも、美人な日と、美人でない日があり、ブスな日と、ブスでない日がある」と考えてみたらどうだろうか。

「そこそこ」を保つほうが大事

 女なら誰もが持つとされている「美人でいたい」気持ちを、私の場合は毎日キープしているわけでは、ないんだな……。40歳を目前に、はっきりそう自覚した。人前に出て華やかにスポットライトを浴びる、そんなハレの日には私だって普段以上に美しくありたいと思う。けれども、一日中在宅作業で人と会わないとか、炎天下での過酷な重労働が予定されているとか、そんなケの日にまで「美」をキープするのは面倒だ。

 そして私の人生、よくよく数えてみると、ケの日が断然多めである。となれば、スキンケアや立ち居振る舞い、所作や内臓の健康などに気をつけて、何もしない、プラスマイナスゼロの状態で「そこそこ」を保つほうが大事な気がする。だから化粧はしなくとも、慌てて背筋を正して口角を上げてみたりは、するわけだ。

 毎日毎分毎秒をずっと「プラスアルファ」の美人として過ごしたい人ならば、自分で道具を揃え、顔の欠点をカバーして魅力を引き立てる化粧をしたほうが、コストパフォーマンスがいいだろう。なりたい理想像が明確なぶん、他人から施される化粧では納得できないことも多いに違いない。でも私は、「今日だけは、とびきり美人になりたいな!」と思った日に、プロの手を借りて化粧をアウトソーシングできれば十分だ。そうやってフルメイクを施すのは年に数回、となると手元に化粧道具をずらりと揃えているのは、むしろ無駄が多い。

 いつもの自分より大幅にプラス、適切な化粧を施され、どこへ出しても恥ずかしくない美人にしてもらえたときは、私とて人並みにテンションが上がる。「毎朝毎夕こんな変身を楽しんでいる女性たちは、人生アゲアゲだろうな」とわかるし、その生きざまを否定するつもりもない。だけど私は、毎日毎日でなくたっていい。長い長い人生のうちほんのちょっと、時々そんな気分が味わえれば、大満足なのだ。

 「化粧をやめた」と書いたこのコラム、その最後には著者近影が貼られていて、フォトスタジオで撮った写真の中の私は、一日限りのハレのメイクを施されて半永久的にドヤ顔で微笑んでいる。記事内容と矛盾があるじゃないか、と怒られそうだが、人生の中で何を「やめる」かは、結局のところマインドセットの話。時々は一流のプロに化粧されたりしながらも、私はやっぱり「化粧をやめた」プラスマイナスゼロの人間として、その他の日常のほうを多く生きている。

スイッチオンとオフの判断を自ら下す

 さて気がかりなのは、「すっぴんで生きることが許されるのは美人だけだ」と言った、あの女性のこと。私の目には、私以上の美人だと見えていた。けれど彼女本人は、そうは思っていない。すっぴんは許されない、化粧を「しなくちゃいけない」のだと考えている。嬉々として新商品を買い揃え、みずから「沼」にハマり、「なぜ化粧をするのかって? そこに顔があるからだよ!」と笑う、楽しげなコスメオタクの友人たちとは、まるで表情が異なる。

 「私たち、そんなに毎日、アクセル踏みっぱなしで、美人でいなくちゃいけないものなんですかね? 毎日ばっちりおしゃれな服着て、毎日、完璧に化粧していなくちゃいけないんですかね?」と尋ねたら、彼女はどう答えるだろう。「当たり前じゃない、女なんだから!」と怒られるだろうか。だんだん、こんな気分になる……ならば私たち女は、いったいどこで、いったい誰に、ブスとして過ごす時間の自由を、奪われてしまったんでしょうね? 私以外に誰も私の顔なんか見ていやしない、そんな日だって多いのに。

 人間誰しも、美人な日と、美人でない日があり、ブスな日と、ブスでない日がある。デートの日、内勤の日、親友の晴れ舞台、自分の失恋記念日、女子会の日、猛勉強の日、人生かけた大勝負の日。どの日にどのスイッチをオンにしてオフにするか、「今はいったん、捨てておく」という状況判断は、いつも自分で下していたいと思う。でなければ私たちは、永久にルッキズムの土俵から下りられなくなってしまう。ガラス窓に映る自分のすっぴんにギョッとしつつも、「だけどまぁ、今日はこんなものだろう、美人の日にはバッチリ大変身してやるぜ」と、その自由を謳歌していたい。

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岡田育
岡田 育(おかだ・いく)
文筆家

 岡田 育(おかだ・いく) 文筆家。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、二村ヒトシ・金田淳子との共著『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。最新刊は「天国飯と地獄耳」(キノブックス)。現在は米ニューヨーク在住。このまま生きると、2020年に40歳。http://okadaic.net/

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