女を“足し算”しない、ありのままの生き方

岡田育「40歳までにコレをやめる」

 私はよく男の子に間違えられていた。髪を短く切り揃え、シャツに半ズボン、スニーカー。恐竜や天体の図鑑、探偵小説や空想科学小説を片手に大股で歩き、大人相手に物じせず、隣にいる花柄ワンピースを着た引っ込み思案な妹のぶんまでよくしゃべる子供だった。姉妹で並ぶと「お兄ちゃん」と呼ばれ、それをいちいち訂正しなかった。性別の間違いに気づくと大人は勝手に大騒ぎして面倒だ。むしろ、怪盗や名探偵よろしく「変装」が大成功したように感じられて、誇らしかった。

 中学を過ぎ高校を終え、大学まで進んでも、ずっと男に間違えられ続けた。わざわざ男装したわけでもないのに、髪を短く切り揃え、セーラー服を脱ぎ、体型が隠れるゆったりした服にパンツを穿いているだけで。薄化粧していても、アクセサリーをつけていても、そういうフェミニンな格好の「男」だと思われた。子供の頃のあの誇らしい気持ちは次第に消えていた。

 女子便所に入ると、洗面台にいる中高年女性が大声で「ギャー!!」と叫ぶ。「あらやだ、あんた女なの、男の痴漢が入って来たのかと思ったわよ!」と叱られる。謝られることは滅多になく、いつも私が「紛らわしい格好でいてごめんなさい」と言わされた。間違えたあなたは悪くないです、私が悪いんです、と。

 あるいは子供に親切にすると、付き添いの保護者が「ほら、おにいちゃんに『ありがとう』は?」と促す。おねえちゃんですよ、と訂正したらきっとまた大騒ぎになって面倒だ。低めの声を作りニコニコ応対して、男としてその場をやり過ごす。そのことに小さく傷つくようにもなった。第二次性徴以前ならまだしも、こちとら二十歳を過ぎているのだ。

 ある男性に片想いして、告白する以前にフラれ、失恋した私を友達はこう励ました。「次は、岡田も女として見てもらえるように、頑張って」。だけど、どうしたら相手に「女として見てもらえる」のか、まるで見当がつかなかった。私は、ただぼんやりとありのままの自分を生きていると、傍目はために「女」とは見えない生き物なのだ。

女に見えないのは何の罪?

 血を分けた妹は、一度も男に間違われたことがない。女子校時代はミュージカル部で男役を務め、下級生からタカラヅカ的な人気を得ていたにもかかわらず。だって、成人男女が性別を取り違えられるわけないじゃん、と言う。「お姉ちゃんが男扱いされるのは、わざと男っぽく振舞うからだよ。子供の頃の男装ゴッコを卒業できていないだけでしょ?」と信じてもらえない。彼女たちはどうやら、ただぼんやりとありのままの自分を生きているだけでも「女」でいられるらしい。

 一方で、共感してくれる友達も一定数存在する。あるある、わかる、私もよく男の子に間違われたわ、今はどうにか「擬態」ができているけどさ、と言う彼女たちは、「我々みたいなのが、きっと将来あの、おじいさんだかおばあさんだか遠目に判別つかないような、性別不明の老人になるんだよねー!」と笑う。とくに努力や意識をせずとも「0」状態で難なく女性性をキープできる妹たちと違って、我々はつねに「+1」を意識せねばならない。うっかりすると数値はすぐ「−1」へ下落し、また女ならざる者と見做みなされてしまう。

 20代前半から30代前半まで、私は「女として見てもらえる」方法をいろいろと試していた。ことごとく「足し算」だ。まずは何より、スカートを穿く。女性ファッション誌に出てくるようなコーディネートで、一目で婦人物だとわかる洋服を選んで着る。化粧をしていますよ、と伝わるまで濃いめにメイクを施す。少し高めの声で話し、しゃべりながら身体をクネクネ動かす。他人の恋バナに興味があるフリ、占星術に一喜一憂するフリ、すねやワキや口元にムダ毛なんて一本も生えてこないフリ。

 二言目には「こう見えて案外、女っぽいところもあるんですよ!」と言っていたし、「私も一人の女として……」「働く女性である我々は……」といった主語を連発していた。何かしら手を施して加味していないといけない、一瞬も気を抜いてはならない。でないと私は、途端に「女として見てもらえる」立場を失ってしまう。相手が咄嗟とっさの判断に迷う前に「私の性別は、女なんですよ〜!」と積極的かつ懇切丁寧に教えてあげないといけない。そう思っていた。

 女子便所に入ると、洗面台にいる中高年女性が大声で「ギャー!!」と叫ぶ。異形の化け物を見たような、あからさまな敵意に満ちた、排他的で攻撃的な、あの叫び声をぶつけられる哀しみは、体験した者にしかわからない。謝られることは滅多になく、いつも私が詫びていた。でも、何か悪いことをしたんだろうか? 傍目には女と見えなかったことが、いったい何の罪にあたるというのだろう。

男性性と女性性が共存し、相互補完

 「女をやめた」……と書くとさすがに言葉がキツいけれど、私は最近そんなふうに考えている。厳密には、これをすれば女として見てもらえるだろうか、これをしたら女だと思われなくなるのではないか、といったことを、いちいち考えて思い悩むのを、やめた。

 お気に入りのスカートを穿くのは、それが好きな服だからで、誰かから女として見てもらうためではない。すっぴんで家を出たのは、今日たまたまそんな気分だったからで、女としての義務に対する反骨精神からではない。そもそも、化粧は女の義務なんかじゃない。今はもう、花柄でピンク色のガーリィな雑貨を買うときに「私に許されるのだろうか」なんて躊躇することもない代わり、カシスオレンジではなくハイボールを注文するときにも「だからモテないのでは」などと気に病むことはなくなった。

 自分にとっての「0」状態で過ごしてみると、私の心の中には男性性と女性性が共存し、対等なペアとしてダンスを踊るように、互いを補完し合っていることがわかる。「女の足し算」をやめてみると、焦燥感から来る謎の出費や、真夜中に不安で泣きはらす不毛な時間なども減ってきて、物心両面でコストパフォーマンスもよい。次回以降、しばしそんな話におつきあいいただきたい。

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岡田育
岡田 育(おかだ・いく)
文筆家

 岡田 育(おかだ・いく) 文筆家。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、二村ヒトシ・金田淳子との共著『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。最新刊は「天国飯と地獄耳」(キノブックス)。現在は米ニューヨーク在住。このまま生きると、2020年に40歳。http://okadaic.net/

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