財務省事務次官によるセクハラが報じられ、「TOKIO」のメンバーだった山口達也さんが女子高生への強制わいせつの疑いで書類送検され不起訴処分(起訴猶予)になった問題がニュースとなりました。
性暴力やセクハラは重大な人権侵害なのに、被害者側に「嫁のもらい手がなくなる」などと周りが言い、泣き寝入りを強いる声もあった昔を考えると、女性が声を上げられるようになったのは「前進」だと思います。ただそうはいっても、セクハラや性暴力自体が「なくなること」が一番大事です。
セクハラや#Me Too運動といった言葉が広まっているにもかかわらず、なぜこの手の事件がなくならないのかを改めて考えてみます。
どんな立場の女性でも「性的な目」で見る(一部の)男性
人には社会生活をおくる中で様々な「立場」があります。山口さんについては、「TOKIOのメンバー」としての立場、「社会人」としての立場、そして、「テレビ番組の司会者」としての立場も。
困ったことに、自分と相手の社会的な立ち位置や立場を忘れてしまい、相手を「性的な目」でしか見られなくなってしまっている男性が少なからずいます。
今回のケースでいえば、未成年者でもある女子高生の立場と自分の立場をわきまえて、番組スタッフや共演者たち、保護者にも声をかけ、みんなでホームパーティーを開く、というさわやかなコミュニケーションであればよかったのに、と思います。ところが唐突に少女を夜に自宅に呼び出してしまうあたり、少女を「自分の性的対象」という立場に勝手に追いやったところが本当に悲しくなります。
福田淳一・前財務省次官の場合も、自分が「財務官僚」という立場で、取材に来た「記者」と雑談に興じるならば、「仕事人と仕事人」のやり取りがあってもいいはずなのに、なぜ「おっぱい触っていい?」「手、縛っていい?」という発言になるのか。そこでもやはり、自分の「財務官僚としての立場」、相手の「記者という仕事」に対するリスペクトはゼロ。自分も相手も色んな才能や能力を持っているにもかかわらず、相手を「性的なもの」と見下しているところが、なんとも腹立たしいです。
被害者は顔を出して告発すべきか
欧州にも残念ながらセクハラはあります。たとえばドイツでは、数年前に女性ジャーナリストが、当時FDP(自由民主党)幹部だった男性議員ブリューデレ氏の自分へのセクハラについてドイツの雑誌「シュテルン」で署名記事を書いています。
パーティーの席で取材をしようとした女性に、ブリューデレ議員は「君はいくつ?28ぐらい?」と聞き、女性が「はい」と答えると、「ほう、そうか。僕はその年齢の女性とは経験が豊富でね」と答えたそう。女性の出身地がバイエルン州のミュンヘンだと知ると、彼女の胸を見つめて「君の胸だとディアンドル(胸が強調されたデザインのバイエルンの民族衣装)を膨らますことができるね」と言ったことがセクハラだとして問題になりました。
救いがあったのは、議員が更にエスカレートしそうな雰囲気の中、彼のスポークスウーマン(名前どおり女性)が厳しいトーンで「ブリューデレさん、もう寝る時間ですよ!」と叫び、同時にジャーナリストの女性に対して謝罪したこと。その後、メルケル首相はこの騒動を受け、「政治家と記者の間において、プロとして敬意ある関係を支持する」と声明を出しました。多くの著名人、そして一般の人々も女性を支持しました。
テレビ朝日の女性記者のセクハラ被害が公になった際に、「告発をした女性も名前と顔を出すべきだ」との声が一部にありました。でも、告発した女性を「全員で擁護する」雰囲気が、今の日本にあるでしょうか。そんな中で実名や顔を出せば、まさにセカンドレイプになりかねません。安易に「欧州のように顔を出せばよい」とは言えないのが難しいところです。
記者会見の「謝罪」は誰に対して?
著名人によるセクハラ事件が起きると、謝罪会見の模様が報じられます。日本では、被害に遭った「女性の心理的負担」よりも、事件によって「仕事関係者に迷惑がかかったこと」や「世間に迷惑がかかったこと」にスポットを当てて語られることが多い気がします。それを見るたびに、「起こした事件も悪いけれど、最後の反省をする段階になっても、女性を軽視しているなぁ」と思わされるのでした。
テレビのワイドショーなどでも、加害者・被害者に関する情報が大量に流れる一方で、「今後、セクハラをなくしていくにはどうしたらいいのか?」「セクハラをされることがどんなにつらいことなのか」という論議はあまりされていない印象です。「世間」のほうも、被害に遭った女性への謝罪よりも、仕事関係者や世間への謝罪を求めているフシがありますが、そういった風潮を変えていくことも今後の課題なのではないでしょうか。