この春、「女をバッグで格付けする男」というのがウェブ上を賑わせた。独自の「高級ブランドバッグ序列」を示し、アラサーの女なら30万円台のセリーヌ、ミュウミュウは25歳まで、ルイ・ヴィトンやプラダはセンス的に微妙、云々と個人的な見解を述べて、Twitterを大炎上させた男がいたのだ。
思わず二度見してしまったのは、これが高度経済成長期に時計の針を止めてしまったような高齢者ではなく、まだ30代前半の独身男性から飛び出した発言だったからである。所持品の総額で持ち主まで値踏みするなんて思想、21世紀の今ではとっくに滅んでいたはずなのに。潰しても潰しても、わいてくるんだなぁ、と思う。
バブル景気に浮かれた日本が地球上のありとあらゆる高級品を買い占めているような時代に、私は幼少期を過ごした。そんな時代のおかげ、というとおかしいけれど、「でかでかとブランドロゴの入った服やカバンを見せびらかすように持つのは、とても品の無い行為である」と、大人たちからしつこく厳しく言い聞かされもした。値札をそのままぶら下げたような、目に見えてわかりやすい高額商品が、それだけ巷にあふれていたのだ。
今時のアラサー男女は、物心つく前に日本の景気が傾いた世代で、そうした指導を受ける機会が少なかったのかもしれない。とはいえいつの時代でも、「一目でそれとわかるブランド物を身につけて、異性からの査定を待つ」なんて、いい大人になるまでにはやめておきたいことの一つだろう。
果てしないマウント合戦には加わらない
私が10代の頃、女子中高生の間ではルイ・ヴィトンのモノグラムに教科書と弁当箱を詰めて登校するのが流行っていた。俗に言うコギャル世代である。東京都内の某私立女子校で最上位に格付けされていたのは、「おばあちゃまからのおさがり」のブランドバッグを使う生まれながらのお嬢様たち。一方で、自分用に買い与えられたぴかぴかの今季新作、まだ革が馴染みきっていない新品を持って来るような生徒たちは、陰で「成金」との誹りを受け、イケテナイ認定されていた。
その陰口を耳にした瞬間、私は白旗を揚げて降参してしまった。高価なものほど上質だ、というのは、千円万円単位でなら実感できる。でもそこから先は、単なるコンテクストの世界じゃないか。上には上がいて、果てしないマウンティング合戦が繰り広げられていく。「成金」と呼ばれてムキになる人々は、最終的には城でも爵位でも買って上流階級の仲間入りを目論み、その必死さをまた「貴族」たちからバカにされるだろう。
しがない会社員の娘である私は、そんな不毛な競争には、到底本気で加われないと思った。今までも、これからも、できれば生涯やめにしたい。そこで米国の百貨店謹製の安くて頑丈なビニールバッグを通学鞄にして、高校卒業まで使い倒すことに決めた。
今も新しく買い物するときは、極限まで小さく折りたためる財布とか、防水のしっかりしたブーツとか、分厚い本を何冊入れても底の抜けないズダ袋とか、実用性を重視することが多い。メンズアイテムを買ったりもする。流行は追わないし、値段では欲しがらない。高性能なら安物だって気にしない。あのとき陰口で笑っていた女の子たちと同じ山には登らない。「やめる」選択肢を採ったのだ。
「世界に一つ」のカバンで価値アピール
もちろん40年近く生きていれば、上質な高級品の良さについて何も知らないわけではない。殿方からわざわざ教えていただかずとも、身をもって理解している。番付に興味がないとはいえ、セリーヌ、グッチ、エルメスなどなど、選んで買ったことはある。でもいずれも一生物だから、十年単位で古びたり、ころころ序列が変わることはない。そうしてこれらのお気に入りを、滅多な場所へは持ち出さないよう気をつけている。下手な連中に見つかって、あっと言う間に「査定」されてしまわないように。
反対に、一万円、五万円、十万円、と年々釣り上がっていく「歳相応」とされる服飾費がバカバカしく感じられたときは、セレブな集まりにわざとZARAのワンピースや漫画絵のTシャツを着て参戦したりもする。そんなことで私自身の価値は変わりっこない、と信じて。そこそこの年齢を重ねてきた女性なら誰しも、なにがしか似たような経験があるのではないだろうか。
もしお時間があれば、Twitter上で「#女の価値を決めるバッグ」というハッシュタグも辿ってみていただきたい。金魚のバッグ、孔雀のポシェット、実寸大公衆電話のリュック、七面鳥の丸焼きポーチに、新巻鮭のボディバッグ……ウィットと遊び心にあふれ、時にお手製だったりもする、機能的で個性的なカバンの写真が、続々と投稿されている。件の男性の発言を受けて、「私の価値を決めるのは、世界に一つしかないこのバッグよ」と女性たちが突きつけたアンサーだ。
クスクス笑ってのち、私だけじゃなかった、と謎の勇気がわいてくる。これらはつまり、大金さえ積めば誰にだって買えるモノの定価だけを尺度にして、それを持つヒトの品格まで値踏みできると考える連中への、華麗なる「やめた!」の意思表示なのである。
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