言葉遣いで迷わない、敬語を使わず不遜に生きる理由

岡田育「40歳までにコレをやめる」

 私は昔から体育会系のノリが苦手で、おかげでいまだに縦割り社会や横の連帯に馴染なじめない。厳しい上下関係のある部活で愚直に球拾いを続けながら信頼され愛される、といった処世術をまったく磨いてこなかったからだ。代わりに何を磨いていたかというと、不遜で生意気な無礼者として社会を斜めに渡り歩く、面の皮の厚さである。

 憧れの人とは一足飛びに距離を縮めたい、年齢差を超えて親しくなりたい。そう、タメ口をきけるくらいに。そこで毎日毎晩、話し方のルールを設計して体にたたき込み、独自の口調を作っていった。幸い私の所属する中学高校の文芸部は完全実力主義で、作品を持ち寄る合評会も全学年の部員が車座でおこなうリベラルな雰囲気がある。何事にも寛容な先輩方を実験台に、許容範囲ギリギリの一線を探りながら、目上の相手にどこまで馴れ馴れしい口調で接することができるか、「敬語をやめる」試行錯誤を繰り返していた。

 当時考案した、「こんにちは、先輩の召し上がっているお弁当には、何が入ってるんですか? のぞいてかまいませんか、見てみたい。わぁ、それって卵焼きなんだ、おいしそう!」という例文がある。挨拶あいさつはニュートラルに。相手への尊敬語はふんだんに。自分でへりくだる謙譲語は控えめに。事実や個人的見解を述べる際にはデアル調をベースに丁寧語すら使わない、というようなさじ加減である。

「好きに意見を述べる自由」実感

 最近の中高生事情は知らないが、当時は先輩に向かって「何食べてんのー?」と全開のタメ口をきく生徒はほとんどいなかった。それどころか、体育会系の子たちは「謹んで拝見させていただきます! いえ、私ごときがおかずの感想を申し上げるなど滅相もございません!」などと過剰に恐縮しては暑苦しがられていた。そもそも日本語として文法が正しくないので耳障りでもある。私の口調は、そのちょうど中間くらいの小生意気さを狙ったものだ。自分で言うのも何だが、微笑ましい。

 使う敬語を必要最低限に抑えることで、失うものもあったと思うが、メリットのほうが多い。たとえば実際、先輩たちとはずいぶん親しくなった。話す言葉を変えると人間関係の磁場まで変わるのだ。「私は人前ではこう話す」と考えて決めたのが効いて、壇上で発表する際のアガリ症も多少は和らぐようになった。そして、「これで失礼な奴だと嫌われたなら仕方ないよね」という諦念からくる度胸もついた。大人から教わった通りに敬語を使っていた頃よりもずっと、「好きに意見を述べる自由」を実感できるようになった。

 また、自分専用の会話文マニュアルを作る過程で私は、おそろしく真面目に敬語表現の構造について勉強した。すべては崩すため、砕けた表現に置き換える余地を探すためではあるが、大人になればなるほど、あのときちゃんと学んでおいてよかったなと思う。「敬語をやめる」とは、誰彼構わず全開のタメ口をきくという意味ではない。焚き火の火加減を調節するようにして、「絞れるところまで弱火に絞る」スキルのことだ。絞れるようになれば逆に、いつでも出力100%全開の強火に戻すこともできる。誤った敬語を使い続けて直そうともしない人たちには負ける気がしない。

会話文をオートメーション化

 大人になるにつれ、まったく別アプローチで「敬語をやめる」を試みている同志たちの存在にも気づくようになった。たとえば週刊誌記者の友人は、年齢が近いとわかるとすぐ「タメ口でいい?」と直截に訊いてしまう。そして「一度タメにすると決めたら、あなたのほうも、ずっと敬語禁止ね!」と他者へもルールを促すことで、人間関係と使用言語の関係性をデザインしていく。初対面の彼女からの提案に、私が二つ返事で応じたのは言うまでもない。

 別の友人は研究者で、「〜してください」「〜してもらえます?」と相手に頼みごとをする場合は丁寧語を用いるが、共同で一緒にする行為をもちかけるときだけ、「〜しない?」「〜しようよ!」とタメ口になる。「Shall we?」と誘う際の「私たち」には上下がなく対等だよね、無理強いはしないから断るときもお気軽に、という思想が透けて見える。単なる口癖かもしれないが、単なる口癖が、この人の裏表ないパーソナリティをよく表していて、大変好もしい。最近は私も真似するようになった。

 誰にでもデスマス調で話しかけていた、あの紳士たちについても見方が変わる。幼い頃から彼らが素敵に見えていたのは、言葉遣いが美しいからだけではないようだ。彼らは言語選択を省力化している。上にへつらい下には威張り、相手やシチュエーションに合わせて態度や言葉遣いをコロコロ変える人たちよりずっと印象がいのは、口調を統一した彼らが言葉の切り替えスイッチを廃止して、人生におけるる種の手間を「やめた」人間だからである。話す言葉の響きはだいぶ違うけれど、「会話文をオートメーション化して無駄をなくす」という意味では、私と共通点もある。

 これはいわば、人と話すときの言葉遣いについて、いちいち迷うのをやめた、ということだ。自分のスタイルを自分で決めて、決めたら迷わない。そんなことが「発言する自由」の手応えをもたらしてくれる。

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岡田育
岡田 育(おかだ・いく)
文筆家

 岡田 育(おかだ・いく) 文筆家。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、二村ヒトシ・金田淳子との共著『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。現在は米ニューヨーク在住。このまま生きると、2020年に40歳。http://okadaic.net/

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