「この子はいつか、人間をやめる!」……幼い頃、そう叱られたことがある。冬の寒い日、小学校から帰宅した私は制服を脱いでコタツにもぐりこみ、何もせずぼんやり過ごしていた。最初は本でも読んでいたのだろうが、日が暮れても電気さえ点けず、暗い居間で同じ姿勢のまま身動き一つせずにいた。
夕飯時に親が帰ってくると、たまたま東京に滞在していた大叔母を伴っていた。ほとんど下着のような格好でコタツにあたる女児を見て、躾に厳しい田舎の大叔母は、烈火のごとくお小言を述べる。勉強机に向かっているべきだとか、指示されずとも米くらい炊いておけとか、甘やかして育てるとろくなことがないとか。そして繰り出されたのが「人間をやめる」。大叔母は信心深い人で、勤労の精神を喪った者はヒトでなくなってしまう、という宗教性を帯びた警告だった。でも私が思い浮かべたのは、当時夢中で読んでいた空想科学小説だ。
神様が与えてくれた“宝物”
せめて大人たちのためにお茶を淹れなさいと命じられ、服を着てヤカンを火にかける。今は子供の役割だ。だけどそのうち人間より有能なロボットが開発されて、こんな仕事は機械が代わりにやってくれる。私が大叔母の年齢になる頃には、あらゆるものが自動化され、きっと新居は火星にあって、医療技術の発達で寿命も200歳。両手足はサイボーグ化しているかもしれない。なるほど、私はいつか人間をやめる。やめたとき、何が私を私たらしめるのか?
大叔母は、何かを「する」時間こそが人間を形成すると信じている。だから、何一つ有益なことを「しない」怠け者の私に、神様から与えられた貴重な時間を無駄遣いしている、と憤る。だけど、と考えているうちに湯が沸いた。大人たちが戻り、夕飯の支度が始まるまでのあの時間こそが、真に自由な私の所有物だったんじゃないのか? 大叔母の来訪によって中断されたあの、何も「しない」時間もまた、私の人生を形作るのに不可欠な、神様から与えられた貴重な宝物なのではないのか。
コタツの中でもずっとそんなことを考えていた。大人の監視の目が届かないのをいいことに、幼い私は着替えもせず米も研がず、「しない」自由を謳歌していた。大叔母の目にはそれが退廃的で不道徳な「怠惰」と映るわけだが、「だって、何もしないでいるのに、忙しかったんだもん!」と屁理屈をこねながら茶を淹れる。
いつまでも立派な社会人になれない?
今でもよくこのことを思い出す。つまらない飲み会の誘いを断って帰るとき。複雑な乗換経路に音を上げて駅前でタクシーを拾うとき。回りくどい時候の挨拶をすっ飛ばして本題に入るとき。愛想笑いを作ろうとしても表情筋が2秒しか保たなかったとき。ハイヒールを運動靴に履き替えるとき、タンクに放り込むだけと謳うトイレ洗浄剤を買うとき、食べかけのお菓子袋を書類用のクリップで留めるとき。
気が咎めないと言えば嘘になる。こんなことでは、また誰かに叱られるのではないか。いつまで経っても立派な社会人になれないのではないか。「ていねいな暮らし」を実践する素敵な人々は、絶対にこんな些細な手間を惜しんだり、面倒臭がったりはしないだろう。もっと、ちゃんと、やるべきことをやるべきではないのか。
「でも、何もしないでいるのに、忙しいんだもん!」と反論する。そのためなら俺は人間をやめたっていいんだ、ジョジョ! ……とまでは言わないけれど、死なない程度に必要最低限の義務を果たしたら、あとは「私のもの」である時間を最大化するべく、徹底的に合理化したり、カネで解決したり、理不尽な社会的要請から逃げ回ったりしたって、いいじゃないか。という、そんな子供じみた言い訳を連ねていく連載です。
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