“時差”の持つ力 言葉を寝かせることの意味

大学時代、とてもお世話になった先生がいて、その人の口癖は「授業にはなるべく出なさいね」というものだった。1限をさぼって遅れてくる学生や、授業のあるはずの時間に学食でたむろしている学生を見ると、先生はいつも「授業にはなるべく出なさいね」と言った。

当たり前のことをわざわざ言う人だな、と最初はあまり気に留めていなかったのだけれど、ある日、同級生たちとささやかな飲み会をしていたとき、参加してくれていたその先生がとつぜん、「連続ドラマで何話がいちばんおもしろいかって予測つかないでしょう」と話しはじめた。先生の話は、たしかおおよそこんなふうに続いた。

「あくまで僕の学生時代の体感だけど、学校の授業もあれとだいたい同じでね、おもしろい講義って急に来るんだよ。ふしぎなことに、シラバス上で重要そうに見える、まあここさえ出ておけばいいかなっていう回が必ずしも大事な回とも限らない。なんでいま? っていうタイミングですごく重要な、その授業のテーマの根幹みたいに思える回が来たりする。だからできるだけ出席しておいたほうが得」

その言葉に妙な説得力を感じて、私たちはみんなぼんやりと黙っていた。先生は学生たちの様子を見て説教臭いことを言ってしまったと思ったのか、慌ててそれが冗談だと示すように、「教師なんて10回に1回くらいしかいいこと言わないからね」と付け足した。それからはずっと座敷の奥で穏やかにビールを飲んでいた。

帰り道、バイト先の友人から電話がかかってきて、歩きながらしばらく雑談をした。私がなんの気なしにその先生の話をすると、年上の友人はそれ教師側が言っちゃだめだよね、とひとしきり笑ったあとで、「そういう回、ほんとに忘れたころに来るよねえ」としみじみと言った。

リアクションの早さで人のことを見てしまう恐ろしさ

先月、喫茶店でパフェを食べているときに、10年ぶりにその飲み会のことを思い出した。長年働いていたIT系の会社を辞めたばかりの知人とお茶をしていたのだった。

久しぶりに会った知人は、わかりやすく“激務に疲れ切った人”の顔をしていた。彼女はここ2年ほど、SNS運用に関する仕事をしていたという。テーブルに運ばれてきた自分のパフェの写真を何枚か撮ったあとで、「だめだ、こういう写真見てると仕事のことを無限に思い出すゾーンに入ってしまう……」と遠い目をした。

私の予想に反して、彼女の仕事は業務量がすさまじく多かったというわけではないようだった。SNS担当がたったひとりしかいないという企業の話も聞いたことがあるけれど、彼女は同僚何人かと分担してその仕事をしていたから、むしろ業務量としては余裕があるほうかもしれないと言った。SNS投稿の頻度やリアクション数に対して、明確なノルマが定められているわけでもない。ハードワークではないけれど、ただただ向いてなかった、と知人は繰り返した。

フォロワー数がある程度多いアカウントの場合、画像や文章の投稿後、早ければ数秒でなんらかのリアクションが来る。SNS運用担当として、はじめはそのレスポンスの速さに新鮮さとおもしろさを感じたけれど、しだいにそのスピード感が当然のようになり、長時間伸びない投稿があると苛立いらだちを覚えるようになった。ほとんどの投稿にいいねをしたりシェアしたりしてくれるフォロワーからの反応がないと、なにか間違ったことを言ったのだろうか、と不安に感じるようにもなった。

彼女のその話を聞きながら、ああ、かなりわかると思った。私はSNS投稿に義務感や強迫感を覚えるほうではないけれど、できるだけ多くの人に読んでほしいと思うようなインタビュー記事や文章の告知をしたとき、読者の方からすぐによい反応がもらえないと、どうしてだろうと不安に感じることはある。リアクションが気になって何度もリプライ欄をたしかめていたあるとき、たぶんこれはまずい、と思った。このまま行くと、どこかの地点で人のことを、数とスピードを反映した抽象的なデータの束としてしか捉えられなくなるという予感があった。

知人にそんなことを話すと、偶然にも、彼女もほとんど同じようなことを感じて仕事を辞めたのだという。もっと時差のあるもののほうが私は向いてる気がする、と彼女は言った。知人と別れたあとも、時差、というその言葉がしばらく耳に残った。

喫茶店風景
写真はイメージです

不思議なメニューのある飲み屋

時差について考えるとき、かならず思い出すことがある。

数年前、ときどきお邪魔する飲み屋に、あることを約束すればウイスキーが1杯無料になる、という変わったメニューがあった。その約束とは、考えたことや話したいことをその場ですぐ口に出さず、任意のあいだ寝かせるというものだった。

その不思議なメニューをおもしろがって、何人かの客が話題を“寝かせる”ところを見た。私もちょうどそのとき、漠然と人に聞いてほしいと思っていた話題があったから、思い出すための手がかりになりそうな言葉だけをメモにして、ウイスキーのラベルに貼った。ボトルの周りには、「犬の種類、猫の種類」「○年○月○日のこと」「“おもしろい”について」といった無数の手がかりだけが貼り残されていた。

メモしたことはその後、何回かにわたって人に話した記憶がある。あるときはそのお店のカウンターで、あるときはタクシーのなかで、あるときは公園の散歩中に。すぐに話すという選択をとらないだけで、話したいと思うことがかえって自分のなかで膨らみ、広がっていくのを感じた。あるときはまったく思い出しもしなかったことが、別のあるときにはものすごく大切なことのように思えて、つい長々と話し出してしまうこともあった。さいきんはつい、どんなトピックに対しても自分のスタンスをすばやく示すことが誠実であるかのように感じてしまっていたけれど、言語にするのを留保することを選んだっていいのだと、いくつかの話題を“寝かせて”いるうちに思い出した。

自分の文章に対して、それを書いてから何年も経ったあとでとつぜん感想を頂くことがある。なかには本当にありがたいことに、いま読めてよかったとか、前読んだときよりも響いたと言ってくださる人もいる。その言葉を聞くたびに、私は大学時代のF先生に、10回のうちの1回だったとしても、あの回に居合わせられてよかったですと心のうちで感謝している。

あわせて読みたい

生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター・エッセイスト

1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

Keywords 関連キーワードから探す