はじめてたこ焼きを食べた日のこと

人に言うと驚かれるのだけれど、これまで生きてきて、たこ焼きというものを食べたことがなかった。たこ焼き(やお好み焼きなどのいわゆる“粉もん”)のもとの原材料には山芋が含まれることが少なくなく、山芋のアレルギーがある自分にとってはずっと、どこか縁の遠い食べものだったのだ。ホットプレートでつくる家庭のたこ焼きも、飲食店のたこ焼きも口にしたことがなかった。

なかには原材料に山芋を使っていないお店もあることは予想でき、たこ焼き屋の店頭でアレルギー成分表を確認させてもらえばいいだけだと頭ではわかっていても、なんとなくそれを億劫おっくうに感じて避けつづけてきた。

けれど先日、家に遊びにくることになった友人のIさんから、「たこ焼きしよ」と連絡があった。た、たこ焼き……と戸惑う暇もなく、彼女はドン・キホーテでたこ焼き器と山芋の入っていないたこ焼き粉を手早く見つけ、こちらの最寄り駅まで持ってきてくれると言った。

先に駅に着いていたもうひとりの友人Sに、じつはたこ焼きを食べたことがないと伝えると、Sはちょっと驚いたあとで「うまいよ」と言った。うまいのかあ、と思っていたらIさんがきた。

なんとなくアクセスできないエリアとしての鮮魚店

駅前のスーパーで材料をおおよそろえたものの、肝心のたこが切れていた。いちど荷物を置いてから別のスーパーに行ってみようと提案し、家までの道を歩く。道すがら、Iさんが足をとめた。目の前には古い看板が提げられた鮮魚店があり、ひさしの下では高齢の店主が鉢巻き姿で魚をさばいていた。

その店は最寄り駅から我が家への最短ルート上にあるので毎日のように目にしていたはずなのに、なぜか立ち寄ったことはなかった。ちょうど、RPGのなかである種のお約束になっている、植木やカラーコーンで隔てられて“これ以上先には進めない”と暗に示されているエリアのように、明確な行き止まりではないはずなのに、直感的にそう思ってしまうような場所だった(少なくとも私にとっては)。だから、Iさんが歩道からフラっとれ、低い庇の下をのぞいて「たこってありますか」と店主に声をかけたとき、驚いた。失礼を承知で書いてしまえば、ここアクセスできるポイントだったんだ、という妙な高揚感があった。

必要な量を伝えると、店主は赤々とした大ぶりのたこをつかみ、ぶちっ、と音がしそうなほど豪快にその足を刺し身包丁で切った。ラップにくるんだたこの足を丁寧にビニール袋に詰めてくれる店主に、すみませんとみんなで頭を下げる。店主が笑顔で「はいよ~」とたこを渡してくれたとき、Sは「ありがと~」とそれを受けとった。無礼な感じや尊大な感じは決してせず、英語圏の人が言う「Thanks」の印象に似た、すごく自然な「ありがと~」だった。

たこあってよかったねえ、と言いながら軽やかな足取りで店を出たふたりのうしろで、私は左右どちらの道からここに来たかがわからなくなり、ぎこちなくマップを開いていた。

50代でピアノをはじめた人のこと

1年ほど前、『ヤクザときどきピアノ』という本を読んでいたく感動したことがある。暴力団関連の迫真の潜入ルポで知られるジャーナリスト・鈴木智彦さんによるエッセイで、楽器経験のない著者が、52歳にして初めてピアノ教室に通うという内容だ。校了明けの疲れた頭で映画を見ていた鈴木さんは、作中で流れてきた『ダンシング・クイーン』に突如魅了されてしまい、ダンシング・クイーンが弾けるようになりたいという一心でピアノをはじめる。

音楽の世界の、ふだん取材で接するヤクザの世界とはまた違ったおきて(たとえば鈴木さんは暴力団の取材の際、警察が急に踏み込んできても相手が監禁罪に問われないよう“部屋のドアを締め切らない”ことを癖にしているのだけれど、ついピアノ教室の防音室でも同じことをやってしまう)に驚いたり翻弄ほんろうされたりしつつも、ピアノ教師の熱血さに食らいつくように向き合い、ピアノの腕をすこしずつ上げていく。本の巻末にはQRコードがついており、アクセスするとピアノの発表会で笑みをこぼしながらダンシング・クイーンを弾く鈴木さんの動画が見られるのだけれど、私はそれを見ながらむせるくらい号泣してしまった。

……という話を以前父にしたとき、彼は「ほおん」と曖昧な返事をしただけだった。たぶん聞いてないんだろうな、と思い、その話をしたことさえ忘れかけていた先日、母から「パパ、ピアノ始めようかなっつってるよ」とLINEがきた。「まじ?」とだけ返して、もしかしてあの本の話を覚えてたのかな、という思いが頭をよぎった。そうだったとしても別のきっかけだとしても、還暦を越えて「ピアノ始めようかな」と思える父を素直に格好いいと感じた。「ショパンコンクール狙いな」と軽々しく送ると、OK的なスタンプが返ってきた。

父が実際にピアノ教室に通い出したかはまだ聞いていない。けれど、私なら人生でまったく触れたことのないジャンル──たとえば華道やポーカーや格闘技とか──を、60代で「やろうかな」とは言い出せない気がした。人の目が気になるからとか、体力がないからといった理由ではなく、もっと消極的な、“パッと見で進めないエリアっぽく見えていたから”という理由で。そんなことを、たかだか30年しか生きていないのに感じる自分が恥ずかしくなった。

こういうことはきっと、いままでにも何度もあった

家に向かって歩くIさんとSのうしろで、私はそのときと同じように恥ずかしい思いをしていた。世界に対するオープンさというか、日当たりのよさのようなものをふたりに感じ、いいなあと心から思う。

急にたこ焼き器を買ってきてくれるとか、知らない個人商店に身軽に入ってタメ口でお礼を言えるとか、そんなの大したことじゃないよと思う人もいるかもしれない。けれど私にとってはすごく大したことだったし、そういう大したことを通じて人のことをいいなあと思うために、そしてそれを当人にも伝えるために、誰かと一緒にいるようなところがある。暑い日で、ふたりの背中を見ながら歩いていると血流がよくなるような錯覚がした。入ったことのない酒屋が左手に見え、「入ったことがない」とさえいままで思ったことがなかったのに気づいた。

後日、余った粉で家でもういちどたこ焼きをした。「つくるのうまいやん、いつの間に」とパートナーは驚いていた。なんでいままでたこ焼きやろうよって提案してくれなかったの、と適当ないちゃもんをつけながら、たぶん、言ってくれたことはこれまでにもあったのだろうと思った。考えてみると、パートナーに限らず、いろんな人がいろんな誘いかたでそう言ってくれたことがあるような気がしてくるのだった。しずかに反省しながら生地をくるくるとひっくり返しつづけた。私はけっこうたこ焼きが好きなのだと知った。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター・エッセイスト

1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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