珍しさとありがたさ(はたいてい釣り合わない)

梅雨どきが苦手で、毎年この時期がくるたびに憂うつになる。春先、明るい色の服を着るのがようやく楽しくなってきた頃だったのに、梅雨に入り気温が下がると、すこしずつ進めてきた“季節の軽やかさすごろく”が一気に振り出しに戻ったような気分になる。洗濯物も乾かないし、家のなかの取っ手はどれもべたべたしている。数日にいちど晴れ間があっても、空の色はどこか濁っていて、体調が悪いのに無理して来てしまった人みたいで不安になる。

この季節の唯一の助けだと思えるのが紫陽花あじさいだ。仕事を進める気になれず、ふらふらと街なかに出ていくと、必ずどこかで大輪の紫陽花が咲いている。見るたび、新鮮にウワアッ、と思う。青一色のものもあれば、赤みがかった複雑なグラデーションのものもあるけれど、どれもちょっと驚くくらいに美しい。雨にぬれていると、葉の上に絵の具を垂らしたように花の色が際立って、なおいっそう見とれてしまう。たいてい、傘を差していても視界に入る低い位置に咲いているから、見かけるたびに心のなかで「ありがたい」と唱えてしまう。

街を歩いていると、コンビニや歯医者かそれ以上くらいの頻度で紫陽花を見る。あまりに至るところに咲いているせいか、紫陽花を見て足を止めたり、きれいだね、とあらためて口にしたりする人たちをほとんど見ない。素通りされる紫陽花を見るたびに、あ、これはエリンギのパターンだと思う。

エリンギ、おいしすぎません?

スーパーで投げ売りされているエリンギを手に取るとき、その存在感と値段の安さの釣り合わなさに、どうして……と思う。エリンギはほとんどすべてのパーツが可食部だ。手で適当に裂くだけでちょうどいい大きさになってくれるし、バターをのせ、コショウをふってグリルで焼くだけで、わりとボリュームのある一品になる。野菜いためにもパスタにも、おみそ汁にも違和感なく混じってくれる。かといって個性がないわけではなく、むしろ頼りがいのある味と食感をしている。私はエリンギのことがかなり好き。それなのに、たいてい1パック90円。近所のスーパーでは、安いと70円くらいまで下がる。おかしいと思う。どう考えても、ありがたさに対して希少価値が低すぎる。

そういうものを目にするたび、「あなたたちがもっと珍しい存在だったら、もっとチヤホヤされてたろうに……」と考えてしまう自分を卑しいと思う。けれど、あまりにアクセスしやすいせいでどことなく価値が低めに見積もられているものって、たしかにあると思う。私にとっては紫陽花とエリンギがその筆頭だ。

むかし、動物の解剖学者に仕事でお会いしたとき、その方が話してくださったことが忘れられない。いま絶滅危惧種に指定されているある動物は、ほんの100年前までは、そこらじゅうどこにでもいる存在だったそうだ。当時の人々は、あまりにもどこにでもいたせいでその動物の絶滅可能性に注意を向けず、気づけば数十年で相当数が減ってしまった。いまは剥製はくせいも手に入りづらく、解剖学者を始めとする研究者たちは、「なんでもっと集めておいてくれなかったんだ」と100年前の人たちに対して思うらしい。だからこそ、いま当たり前にいる動物でも、きちんと集めて研究を進めておくのが博物館などの基本理念なんですよ、とおっしゃっていた。その日の帰り道、駅前のベンチに群がっている鳩を見て、「おもしろい鳥じゃん」と、急に思った。

「東京 花火できる場所」

花火と浴衣の女性
写真はイメージです

だからどうというわけではないし、いつか珍しくなるものにこそ目を向けたほうがいいと言いたいわけでも当然ないのだけれど、そういうことって本当にたくさんあるなあ、と梅雨どきに街を歩いているとよく思う。

大学時代、上京してきたばかりのある友人は、近所の公園で花火をしたら警察がきて怒られたと話していた。「調べたら花火全然できないんだね、実家のほうはどこでもできるから油断してた」、とひとしきり嫌そうに言った彼女は、Googleの検索窓に「東京 花火できる場所」と打ち込みながら、しみじみと「東京に来たなあ」とつぶやいた。そのときの友人の表情をなんとなく、いまも鮮明に覚えている。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター・エッセイスト

1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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