それって結局、筋肉フェチってことですよね?

長らく悩みだった肩こりと姿勢の悪さをすこしでも改善したいと思い、数か月前からスポーツジムに通いはじめた。日頃、趣味でスポーツやランニングをすることもないし、学生時代にもスポーツ系の部活には入っていなかったから、運動の習慣は一切ない。自分でもうすうす、たぶんひと月くらいで飽きちゃうんだろうな……と思いながら入会届にサインをした記憶があるので、いま、週に2回はジムに通うことが習慣になってきた自分に、私自身がいちばん驚いている。

体を動かす趣味がある人にとってはおそらく当然のことだと思うのだけれど、しばらく運動を続けていると、まったく運動をしない日が、反対に気持ち悪いと感じるようになってくる。私はカフェイン中毒の気があるので、朝からコーヒーをまったく飲まないでいると、だんだん頭や体がソワソワしてくるのだけれど、それに近い感覚が運動に関してもあるんだな、というのは発見だった。

「そういう話じゃない」と言いたくなった

発見といえば、ジムに行くようになってから、「筋肉」のイメージへの解像度というか、理解度が上がったのもひとつの発見だった気がする。

これまで私は、人の筋肉を見て、いいなあとか格好いいなあと感じたことがなかった。というよりも、筋肉がついている人という存在が、自分にとって漠然と「他人」だった。だから、雑誌の表紙を飾っているモデルの見事な筋肉を見ても、スポーツの大会で競技に取り組む体操選手の筋肉を見ても、ただただ「お、筋肉があるなあ」と思うだけだった。

たとえば、服飾への関心が薄いと自称している私の友人は、創意工夫の凝らされた洋服を着ている人を見ると「なんかたくさん布がついてるな、たぶんおしゃれなんだろうな」と感じるという。筋肉というものへの私のまなざしも、たぶん、その感覚に限りなく近いものだったと思う。

けれど、自分で筋トレ(らしきもの)をするようになってから、ジムのトレーナーの人たちの鍛え上げられた腹筋や腕、首筋の筋肉を見るたびに、「あれはすごいことだぞ……!」と感じるようになった。どこをどのくらい鍛えればどの部位に筋肉がつく、ということが曲がりなりにもわかってきたので、その筋肉を維持するためのトレーニング(や、おそらく食事制限など)を欠かさない人たちに対して、リスペクトを覚えるようになったのだ。

……という話を先日、飲み屋で知り合った人にしたら、「そっか、筋肉フェチに目覚めたんですねえ」と言われ、曖昧な返事をしてしまった。しばらく考え、「たぶん、筋肉フェチというわけでは……」と言葉を濁すと、「男性のムキムキの筋肉ってやっぱりすてきですもんね」という方向に話が進んでいく。

いや、そういう話じゃないんですよ、と言おうとしたけれど、酔いも相まってあまりうまく言葉にできなかった。たしかに、いわゆる「男性のムキムキの筋肉」に対する感覚は、これまでとは変わったと思う。その気持ちのなかには、あれだけストイックに鍛えられて格好いいなあとか、美しい筋肉だなあという思いも混じっているから、フェチ、と言われて100%否定するのも違う気がする。

けれど、確実に「そういう話じゃない」と言いたくなったのは、その場に、話の展開を円滑にするためのコードとでも言うべきものが張り巡らされているのを感じたからだ。

「場にとっての最大公約数」にされないために

同じ気持ちを、10代のころ、何度も感じていた。あまり親しくない人に、自分の好きな2人組バンドについての話を振られたときに、「で、メンバーはどっちが好きなの?」と聞かれたときの違和感だ。

「バンドそのものが好きだから、メンバーもどっちも好きだよ」とあらかじめ伝えていても、話はたいてい「どっちがタイプなの?」という方向に進んでいく。ギタリストの人のトークとか歌詞が好きでね、と、すこしでも相手の意に添いそうな答えを返そうものなら、「どっちも格好いいけどギターのほうがイケメンだもんねえ!」と言われてしまう。

別に、私の話だけに限らない。理由もわからず何かが無性に好きとか、簡単には言えないけれどちょっと嫌なことがあったとか、そういう微妙なグラデーションの話を誰かがしようとするとき、「場を回すのがうまい人」の手にかかって、言葉が場にとっての最大公約数にされてしまうのを、うんざりするくらい見てきた。

昔からそれが嫌だったけれど、最近、特に抵抗を感じるようになってきた。たぶん、YouTubeやオンライン上のメディアにおいて、話を要約することがうまい人がたくさん出てきて、正しさや細かなニュアンスを無視して意見をまとめてしまうのを、これまで以上によく見るようになったからだと思う。

……「筋肉フェチ」と言われたくらいで大げさな話だな、と思われたかもしれないのだけれど、私は「それって結局〇〇ですよね」という物言いに、きちんと抵抗しなきゃだめだと思うのだ。

場のノリに合わせるとか、会話をスムーズに進めること自体は、決して否定したくない。それが楽しい、安心できる、という気持ちもよくわかる。けれど、あまりに場にとっての“要約”をし続けていると、自分でもいつしか「結局」に続く言葉に、自分の気持ちや意見のサイズを切りとって合わせてしまうようになるはずだ。

だから、ほんとうにささやかな反発ではあるけれど、特定の文脈に合わせて要約された言葉を、「この人面倒だな」と思われてもいちいち否定していこうと思っている。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター・エッセイスト

1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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