瀬戸内寂聴51歳、出家の決意。「きびしい愛を需めてきた」

2021年11月9日、99歳で亡くなった作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん。34歳の時、瀬戸内晴美の名で作家デビューすると、情熱的な恋愛経験を昇華した作品を次々発表して一躍人気作家となりました。家庭のある男性との恋に身を焦がし、51歳で出家を決意。得度式の直後に発表された手記には、愛することと祈ることについての思いがつづられています。(『婦人公論』1974年1月号「“佛の花嫁”になった私の真意」より)

傷つけあい、苦しめあう愛

私は小説家になるという途方もない考えを持っていたが、それをいつのまにか実現していた。考えてみれば、それさえ不思議といわなければならない。世間に何万といる小説家志望者のうち、何割が小説家になって生活が出来ているだろう。私は常に怖れを知らなかった。それは生活難への無知であり、世間の怖さを知らぬ無鉄砲さからの無防禦であった。人生に仕かけられた無数の罠への警戒心も全くなかった。人に逢えばまず信じ、自分が人に嫌われたり憎まれたりする筈がないという無邪気な自信に支えられていた。

極楽トンボの私は、今日食べるものがない暮しをしていても、こんな状態は自分に決してふさわしくなく、何かのまちがいで、必ず正常な日がやってくると信じきっていた。それでも不如意がつづく時は、自業自得、自業自得と呪文のように口の中でいえば気がすんでいた。

自分の生き方は自分で選んだのだからと、最後の責任は自分でとる覚悟だけはつけていた。どんなに苦しい時も、神仏に祈って頼るということはしなかった。切羽つまれば、死ねばいいのだという肚もきめていた。それでいて、私はよく深夜、寝床に正坐して手を組み、頭を垂れて何かに祈ることがあった。それはいつでも自分のためではなく、愛する者の苦しみをどうすることも出来ない苦しさから、彼等の悩みをやわらげ給えと祈るのであった。私がどんなに、心を尽しても、愛をそそいでも、人間の愛が人間の深い哀しみや苦しみを根本から救うことは出来ないのだということを、幾度となく私は教えられた。むしろ、人間の愛は、ある程度を過ぎれば互いに傷つけあい、苦しめあうことの方が多いことも思いしらされた。それでも、こりずに私はいつでも恋をしていたし、その都度命がけであった。

人間の情熱は衰えるために生れる

私はいつの場合も相手に何も需めた覚えはなかったが、相手は私ほどきびしい愛を需める人間はいないという。契約をともなわない、報酬をともなわない愛のあかしは、ただ互いの衰えない情熱だけであった。けれども人間の情熱は衰えるために生れるのである。相手の情熱の衰えも、自分の情熱の衰えも私は許せなかった。情熱の衰えたところから家庭の愛は生れるが、家庭を持とうとしない私には、衰えた情熱は死灰にすぎなかった。

私は新しい恋を得る度、死灰の中からよみがえり、若がえり、成長した。どの人も私にたっぷりの栄養分を与えてくれ、私にない智慧の実を獲ってきて手ずから食べさせてくれた。しかし私は彼等に何ほどのことをして報いただろう。チェーホフの可愛い女のように私は次々と恋人の影響を受けたが、そのどの影響も自分の血肉にしてしまい、今はどれが誰の影響の名残りなのかさえわからなくなっている。現在の私は夫の家を出た時の私とは全く別人になっている。

40代の瀬戸内寂聴さん
99年の人生でいくたびも居を構えた京都。着物姿でそぞろ歩く40代の瀬戸内さん

人間が生きるということは自分の才能の可能性の幅を極限にまで押しひろげてみることだと、私はこれまで信じてきたし、人にもいってきた。今もそれは変らない。しかしそれは、人間が他人との生活の中に生きていてこそいえることで、無人の沙漠で、人間がどんな自分の才能の可能性をたったひとり開発しつづけたところで何になろう。自分の才能の可能性を伸すことが他をもうるおし、喜びを与えることになってこそ、人間は生きているという実感と、自分の存在への自信を深めることが出来るのではないだろうか。私の生きてきた今世紀ほど、人間の才能の可能性が極度に開発されたことはない。人は月にさえ立った。それでいて、今世紀ほど人間が不幸な戦争を絶間なくつづけていた時があるだろうか。

人間が他の動物と違うところは、愛することと祈ることを識っていることではないだろうか。

【写真提供】中央公論新社

※この手記は、「99年、ありのままに生きて」(中央公論新社)に収録されたものを再編集したものです。

「99年、ありのままに生きて」
(著:瀬戸内寂聴/中央公論新社)
大正・昭和・平成・令和 四つの時代をかけぬけて――「今、生きていてよかったと、つくづく思います」。デビューまもない36歳のエッセーから、99歳の最後の対談まで。人々に希望を与え続けた、瀬戸内寂聴さんの一生をたどる決定版。

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