うれしいことがあった日

つい先日、うれしいことがあった。

ずっとしてみたかった仕事の依頼を頂けたとか、あこがれていた人に会えたとか、ましてや冠婚葬祭にまつわるような類いのことでもないのだけれど、私にとってはすこし驚くようなことだった。けれど、食事のついでにほんとうに何げなく人からそれを知らされたとき、実際の自分が感じたのは、「いつかそういう日もくるかもしれないと思ってたけど、今日か」という妙に落ち着いた気分だった気がする。

最近めったに開かなくなった10代のころの日記帳を読み返してみると、当時の「夢」としてそれが挙げられていた。夢かあ、と思う。高校生の私の目で今日の自分を見れば、その夢が一応かなったということになる。たぶん私以外の人からは、それが夢? なんかもうちょっとありそうなのに、と思われるようなことなんじゃないかと思う。

それを教えてもらった日の帰り、何度か立ち寄ったことのあるバーにふらっと足が向いた。恥ずかしい話だけれど、気持ちの置きどころが自分でもわからなくて、いったんアルコールで心のざわつきを落ち着かせたいと思った。JRに揺られているとき、足が地面からわずかに浮き上がっているような感覚が続いていて、「ドラえもんが家の中でも外でもはだしでいるのは、常に地面から数ミリ浮いているから」という雑学を唐突に思い出し、同じじゃん、と謎の共感を覚えたりしていた。

今日くらいは浴びるほど飲んでもよし、という気持ちで店に向かったはずだったのに、結局私は、ごく普通のウイスキーを2杯飲んだだけだった。氷が溶けるのを待っているあいだ、「ちょっといいことがあったので、スパークリングワインを開けてもいいですか?」とマスターに聞こうか何度か迷ったけれど、なんだか気恥ずかしくてそれさえできなかった。その晩の私に唯一できたのは、「タクシーで帰る」というレベル1くらいのぜいたくだけだった。

「大したことしてないのに」の傲慢さ

振り返ってみると、お祝いとかねぎらいと呼ばれるようなことをするのが、昔から下手だったのだと思う。他人の誕生日や記念日を祝うのは好きで、張り切って贈りものなどを用意してしまうタイプのわりに(そして、それを人にしてもらっても喜ぶタイプのくせに)、自分で自分になにかを贈るとか、よく頑張ったと評価するとか、そういうことがずっとうまくできない。友人や知り合いが「1年頑張った自分に」とか「繁忙期を乗り切ったご褒美ほうびに」という理由ですてきなレストランに行ったり、ちょっとしたジュエリーを自分で自分に買ったりしているのを見るたびに、かっこいいなとあこがれる。

特段、ぜいたくが苦手、というわけではない。趣味のライブや演劇のチケットは定価がいくら高いなと思っても迷わずに買うほうだし、洋服とか食器とか、旅先で偶然目にした民芸品とかも、突然ぱっと思い立ったら手に入れたくなってしまうほうだ。けれど、自分が残したなんらかの結果(と呼びうるもの)やその過程を祝うようなものを買おう、と思うと、大したことしてないのにいいのかな、という疑念が湧いてきて、なにもできなくなってしまう。

すこし前まで住んでいた家の近くに、お酒の種類が豊富な酒屋があった。取材の仕事や打ち合わせで外出するたび、その帰り道に酒屋でビールを買って帰るのが日課になっていたのだけれど、引っ越すことが決まった直後、「結局、私ここで飲みたいビール買ったこと一度もなかったな」と気づき、愕然がくぜんとしたのを覚えている。私はお店に寄るたびに低価格帯のビールをなんとなく手にとり、「クラフトビールは今日じゃなくて、もうちょっと頑張った日に買って帰ろう」と思い続けていたのだけれど、結局、その「もうちょっと頑張った日」なる日は最後までこなかった。

たぶん、怖いのだと思う。自分を祝ったりねぎらったりすることは、いまの自分の身の丈を知り、それを受け入れることに他ならないから。

以前、心理職に就いている人と話していたとき、「いま『自己肯定』という言葉は『自分を常に好きでいる』というような意味で使われることが多いけれど、私はどちらかというと『自分の現状のサイズ感を過剰に否定しないこと』だと思う」と言われたことがあって、その言葉がずっと頭に残っていた。そういう意味では、大したことしてないのに、なんて思うのは、いまの自分の姿を受け入れようとしない、傲慢ごうまんで失礼な振る舞いのようにも感じられる。

わざとらしくても、自分を祝ってみる

……と、ここまで書いたようなことを始終理屈っぽく考えていたわけではさすがにないけれど、今回ばかりは自分をねぎらって“お祝い”をしてもいいんじゃないか、と思った。それがたとえわざとらしかったりぎこちなかったりするものになったとしても、そのざらざらとした不自然さがむしろ、あとから記憶に触れたときに、今回のことを鮮明に思い出すための取っかかりのようになってくれるかもしれない。

そんなことを思いながら、数日前、好きな香水のお店で1時間近くああでもないこうでもないと香りを試して回り、1本のボトルを買うことにした。レジで、ご自宅用ですか? と聞かれたとき、自分用だけれどギフトラッピングはできますか、と尋ねてみると、快く引き受けてもらえた。

「すごくいいと思います。そういう気分のときってありますよね」と、手早くギフト用の包装をしながら答えてくれた店員さんに、曖昧な返事しかできなかったのが申し訳ない。自分を祝うような気分にうまくなれないから、それにすこしでも近づくために新しいものを買ってみたんです、という意味のことが、とっさに口から出てこなかった。

けれど、その香水をおなかのあたりに1プッシュしてから出かけるというのを何日か続けていたら、ふとしたときに、急な雨に当たるようにしてうれしさがやってくるのを感じた。実感というものがこんなにもわかりにくく、じわじわと遅れて訪れることもあるというのをはじめて知った。

今日、通っている整体で背中を押されているとき、突然思い立って「実はちょっとうれしいことがあって」とそのことを話してみた。整体師さんは本当に一瞬、驚いたようにすこしだけ手の力をゆるめて、「それはそれは」と言った。話してしまったら急に恥ずかしくなって、私はうつ伏せの体勢で深く息を吐きながら、「周りの人に感謝ですよねえ」と毒にも薬にもならないことを口にしていた。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター・エッセイスト

1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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