昨年英訳版が出版された「ヘヴン」が、英国で最も権威のある文学賞のひとつであるブッカー賞にノミネートされて注目を集めている作家の川上未映子さんが、最新作「春のこわいもの」(新潮社、税込み1760円)を刊行しました。収録された六つの短編は、いずれも新型コロナウイルス感染症が爆発的に流行する直前の東京を舞台にしています。執筆の背景とともに、川上さんのコロナ下での生活の変化、子育てや仕事をするうえで心がけていることについて聞きました。
――タイトルにある「春」にはどんなイメージをお持ちですか?
春は、感受性が刺激される特別な季節だと感じています。いつもそわそわしますし、こわいものだらけです。卒業や進学など、始まりと終わりが同時にやってきますが、本来、時に区切りなどないはずで、かえって曖昧さが際立つような気がします。
日本の春を象徴する桜も、どこかこわい。死者の鎮魂の働きがあるとされていますし、梶井基次郎の小説の一文、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」というフレーズのイメージも強烈です。私は大阪育ちで、毎年、造幣局で開催される「桜の通り抜け」に家族みんなで行っていたのですけど、この催しはレジャーシートを広げてご飯を食べたりお酒を飲んだりしながらお花見するのではなくて、桜の下を止まらずに歩かされるんです。その時、まるで黄泉の国を巡っているような錯覚に陥ったことを最近思い出しました。そういうこわさが、子どもの頃から染み付いているんですね。
制御できないなにかをごまかしている
――病気で入院中の若い女性がつづる手紙形式の「青かける青」と、同じく病院のベッドで死を迎えようとしている老女が家政婦に話しかける「花瓶」の2編には共鳴するものを感じました。
精神と肉体の関係というかありかたに、ずっと関心を寄せてきました。自我のある場所である肉体が自分にはどう見えるか、対して外側からはどう見えるか、そのあり方に興味があるのです。これは、現代社会において私たちが抱える大きな問題でもあります。私が私であるということは、どうやって証明できるのか。性なのか、言葉なのか、経験なのか、社会にあるカテゴリーなのか、あるいは、それらのすべてなのか。高齢化で認知症が増えていますが、本人が果たして人生のどこを生きているのかというのは、実は謎なのです。
――「あなたの鼻がもう少し高ければ」の主人公・トヨは、SNSの美容整形アカウントに入り浸り、整形手術の費用を稼ぐために“ギャラ飲み”の面接に向かいます。
だんだん人々の意識も変わってきて、人にはそれぞれの良さがあり、自分の価値は自分で決めるものだという考えが広がってきましたが、人の思いは複雑です。それこそ、ありのままの自分でいられる強さを求める気持ち、でもどこか他人の目を意識してしまう気持ち、どうしようもない憧れを抱く気持ち。気分や流行にだって左右されます。それは、いいか悪いかではなくて、現実なんですよね。他人には理解できないオブセッションに、生き死にがかかっているんです。若い人たちからは、それを感じます。
――「淋しくなったら電話をかけて」では、41歳の女性が自分の人生を指して「空箱を並べるような日々」と。コロナへの不安が広がる世界で、もともと誰ともつながっていないことを突きつけられます。
生きていれば、だいたいこういう感じだろうとは思います。もちろん小説なので凝縮されている部分もありますし、この主人公ほどではなくても、こんな感じの一瞬って誰にでもあるのではないかと思うのです。みんなこんなふうに生きているんじゃないですか? 比喩じゃなくて、十字路に立っていて、どっちに行ったらいいのかわからなくなることが、よくあります。誰にでも、制御できないなにかがあって、それをごまかしながら我々は生きているんです。
親の生き方が子どもの基盤になる
――「娘について」は一番長い作品です。母子家庭で育ち、小説家を目指しているよしえは、実家が裕福で女優志望の見砂杏奈に嫉妬し、母娘関係を利用して取り返しのつかないことをしてしまいます。
よしえは、過干渉な母親に言われるがままの見砂にいらだちながら、あるポイントを越えると見砂の世話を焼き始めますよね。一方で、密かに見砂が失敗するように誘導したり、見砂のブログに匿名で誹謗中傷を書き込んだり。母親の支配が連鎖していきます。
母親の了承を得ないと何も決められない人が、私のまわりにも大勢います。「子どもの保育園はどこがいい?」「賃貸マンションはここでいいかな?」と。そんな自分が嫌だと言いながら、母親からなんらかの援助を受けているし、けっきょく影響圏内から出られない。
夫からDVを受けていて、我慢しているママ友もいます。離婚で暮らしの水準を下げるのは嫌だし、子どものためにもこのまま耐えればいいのだと。でも、それを見て子どもは育つんですよね。父親が、母親をひどく扱う。子どももそれが当たり前だと思うようになる。もちろん、お母さんを守りたいと考える子もいると思いますが、母は弱虫だと見下してミソジニー(女性嫌悪)を抱いてしまう子もいる。
うちでは、性別で決められる役割はないし、なんらかの性であるだけで、偉いとか、こうだとか、あるいはとくべつだということはないよ、と伝えています。
親の生き方は、子どもにとって基盤になります。子どもは、空気を読み、空気から多くを学びます。難しいと思うけれど、どこかで変わらなければダメ。まずは、自分は何に苦しんでいるのかを言語化することが大切だと思います。

苦しいほうを選ぶことが鉄則
――ご自身は、コロナ下でストレスがたまったということはありましたか?
小さなことはたくさんありましたが、でも机にむかっていつもどおりに仕事ができていましたから、どれもたいしたことではありません。
今回の感染症のように大きな環境の変化の中で強く感じたのは、変化の前の日常を振り返って「かけがえがなかった」と美化しがちですが、そういう気分的なことに浮かれるべきではないということ。以前より花がきれいに見えたりするのはもちろん罪ではないけれど、でも花は、5年前も昨日も一昨日もきれいだった。
災厄は必ず繰り返されるものですから、今日はいつだって災厄の前日なんです。そして、災厄が起きても起きなくても世界は美しいし、そしてどうしようもなく酷いものだし、いつか私たちは残らずみんな死ぬのだという、その事実からは逃れられません。
――今春、新訳をてがけた「ピーターラビット」シリーズの刊行が始まります。また現在は読売新聞で長編小説「黄色い家」を連載中です。今後挑戦していきたいことは?
新しいこととの出会いは、すべてご縁次第ですね。ただ、選択肢のうち、苦しいほうを選ぶことが鉄則です。これは難しいだろうな、大変だろうな、じゃあやろう、と。それをつづけていくしかないのかな、と思っています。
(聞き手・読売新聞メディア局 深井恵 写真・Reiko Toyama)