「待てない」空気、「待てない」社会の不健全さ

体力には自信がある、と言っていた友人が最近骨折をした。自転車で転倒して手の骨にひびが入ってしまったそうで、漫画みたいに包帯をぐるぐる巻きにしている。カフェや飲み屋の写真が頻繁にあげられていたインスタのストーリーはこのごろ手元の写真ばかりになって、そのほぼすべてに「曲がらない」「つかめない」「持てない」という文字が入っている。

私がときどき「指、今日も曲がらない?」と聞くと、「曲がんないよ」とすぐに返信がくる。とつぜんの学級閉鎖にソワソワしてなにをしていいかわからなくなってしまった小学生のようで、本人もその状況にどこか高揚しつつも、戸惑っているのが伝わってくる。はやく治ってほしい、とその投稿を見るたびに祈っている。

手にケガをした女性
画像はイメージ

ケガするまで気づかなかった自分がイヤだ

少し前、用事があってその友人に会ったら、彼が「これはもう、世の中の人たちが何万回も言ってきたことだと思うんだけど」という前置きつきで、「ケガをすると人にやさしくなれる」と言った。ケガをして最初に実感するのは、とにかくすべてのことにどうしようもなく時間がかかる、ということだ。はじめはその時間のかかりかたに自分でイライラしてしまうけれど、だんだんとそれに慣れてくると、今までどおりのスピードで動いている公共の場に行くのが怖くなってくる。

改札でSuicaをタッチするとか、落としたものを拾うためにしゃがむとか、そういうことがすべてほかの人たちよりもワンテンポ遅い自分が、公共の場にとって迷惑なんじゃないかと思えてくる。その心境を自分でいちど経験してしまうと、とてもじゃないけれど、改札前で定期が出せなくてモタモタしている人に「早くしろよ」とは思えなくなる。だいたいそんなことを、友人は言った。

「でもなにがイヤって、そんな当然のことにいざケガするまで気づかなかった自分だよ」という言葉を、うん、そうだよなあ、と私も思わずかみしめてしまう。

私が先週(ようやく)キャッシュレス決済のアプリをスマホに入れたのは、待ち合わせまで時間を潰すのに入ったチェーンの喫茶店で、レジの近くの席に座ったのがきっかけだった。会計を済ませる客の声を聞いていたら、30分ほどのあいだ、誰ひとりとして現金払いの人がいなかったのだ。

駅前の店舗でただでさえ回転が早いというのもあるけれど、「PayPayで」「Edyで」のひと言で完結するキャッシュレス決済のおかげで、本当に信じられないくらいのスピードでレジ待ちの列は進んでいった。それを見ていたら、なんとなく追い立てられるような気持ちになって、入れとこうかな、私も……と思ったのだった。

自慢じゃないけれど、私自身はなにをするにも時間がかかるほうで、たとえばレジの前でなかなかお金が出せずに後ろをつっかえさせている人を見ても「そうだよね。わかる」としか感じない。それでも思わずキャッシュレス決済のアプリをインストールしたのは、待つことにイライラする人の気持ちを想像してしまったからだ。けれどよく考えてみたら、他人のほんの数十秒、数分のもたつきを待てない人、待てない社会の空気のほうがよっぽど不健全じゃないか、と感じる。

ケガをした友人が「『人に迷惑をかけるな』なんていうのは健康な人間の思い上がりだ」と言うので、本当にそうだ、と思った。むかし、足にのある人が「自分の生活は、8割方引っかかってしまう大縄跳びの輪に飛び込んでいくときの緊張感と常にたいさせられている」と言っていたのを思い出す。うまくいけばなんとか胸をなで下ろすことができるけれど、大抵は誰かを待たせたり介助をお願いしたりすることになるから、常に「ごめんなさい」と言う準備をしている、と。当たり前の生活をするだけで、どうしてその人が謝らなきゃいけないんだ、と怒りを覚える。

骨折中のイタリアンの店主

何年か前に、別の友人とふたりでイタリアンを食べにいこうという話になった。予約をしようと気になっていたレストランのサイトを見てみると、「店主ひとりの店です。いま、店主は骨折中です」と書いてある。骨折中ということはお休みだろうか、と思って念のため電話をかけてみると、店主とおぼしき人が出て、「やってます。出せるメニューすこし限られちゃうんですけど」と言った。

行ってみると、カウンターの中に店主はいて、キャスター付きのイスに腰かけて料理をしていた。ぐるぐると包帯の巻かれた足を見て「大丈夫ですか!?」と聞くと、「大丈夫大丈夫。元気なんですけど、きょうは座ってやらせてもらいますね」と言う。

その言葉どおり、店主はその日ずっとキャスター付きのイスを足のように使い、ちゅうぼうと客席とを動き回っていた。時間はかかるけれど、どの料理も注文すれば確実に、いちばんおいしいタイミングで出てきた。途中からは、私たちがカウンターまでできた料理を取りにいくスタイルになり、「助かる~」と店主は言っていた。聞くと、趣味のスノーボードで足を骨折してしまったという。

店の雰囲気はとてもよく、ワインもおいしく、なにより、店主が変に焦ったり申し訳なさそうにしたりしないのが心地よかった。あの日のことを最近よく思い出しては、駅やコンビニで自分が大勢の人の流れのなかにいるときも、同じ気持ちでいられるだろうか、いたいのだけど、と自問自答している。

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      生湯葉シホ
      生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
      ライター・エッセイスト

      1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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