薄い壁、へんな街──ひとり暮らしを振り返る

用意していた荷造り用の段ボール30箱は想像以上に余った。本と香水、すこしの食器、こまごまとした日用品をさしあたり詰めてみたらあとは特に入れるものがなくなって、自分でも驚いた。ものの少ない暮らしだとうすうす感じてはいたけれど、ここまでだったのかと思った。

昔、ものを少しずつ減らし、生きている痕跡を消していきながら、ふっと消えるような生涯をときどき夢想すると記していた作家の日記を読んだことがあった。その気持ちには私もわりと共感できる。生涯を、とはいかないまでも、少なくともひとつの暮らしを終えるときには、できるだけ身軽でいられたらいい。

信じられないくらい壁の薄い部屋だった

引っ越しイメージ
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振り返ってみると、この2年間のひとり暮らしのことを、私はどこか生地と生地の“つなぎ”みたいなものとして捉えていた気がする。住んでいた家賃7万円の1DKは狭いのに、部屋に全部で5か所も窓があった。入居の決め手になったのはそこだったのだけれど、開放感がある代わりに夏はとびきり暑く、冬はとびきり寒かったのは誤算だった。

それだけならまだしも、部屋の壁が信じられないくらい薄かったのにはほんとうに参った。隣の部屋の住人が立てる生活音の一つひとつがあまりに鮮明にこちらに聞こえてくるものだから、最初のひと月でその人が夜寝ながら聴いているラジオ番組、部屋の家具のおおよその配置、彼が花粉症であることまでわかってしまったくらいだった。この部屋での生活の終わりがどういうかたちで訪れるのか(たとえば別の街への引っ越しとか、誰かとの同居であるとか)、住みはじめた当初はまったく想像していなかったけれど、隣の住人のスマートフォンからポコン、というLINEの通知音が壁越しに聞こえてきたときにはさすがに笑ってしまって、つぎの更新の前までに引っ越そう、と決めたのだった。

部屋はともかく、住んでいた街のことは気に入っていた。チェーン店の立ち並ぶ駅前からすこし歩くと至るところに居酒屋があり、スナックがあり、その間を埋めるようにラブホテルや小さな公園が点々とあり、公園のベンチでは缶チューハイ片手にクロスワードパズルをしている人とNintendo Switchを持った子どもが無言で並んで座っている、というような光景が日常的に見られるのがよかった。

背の低い電柱とごちゃごちゃした電線によって空は狭く、道も細く、そのくせやけに坂道と神社と桜の木が多い。自分が生まれ育った街にも近いせいか、散歩をしていてそういういかにも“東京北部らしい”景色を目にすると、胸がざわついて泣きそうになることがあった。そのたびにちょっと悔しくなり、駅前のボウリング場の前に置かれたボウリングピンのばかでかいモニュメントをわざわざ見に行っては、へんな街、と心の内で悪態をつくことで情緒を落ち着かせていた。

けれど前述のとおり、そう遠くない未来にここから引っ越すというのもわかっていたから、いつか思い返したときに「悪くない暮らしだった」と思いたい、という気持ちもあった。そのためによく花を買った。帰り道、スーパーの食品と花を抱えて歩道橋を渡っていると、ひとり暮らしというのは誰宛てかもわからない手紙を書きつづけているみたいな生活だな、と思うことがたまにあった。

春がくるね

そういえば、引っ越してきた一昨年の春は、最初の緊急事態宣言のまっただ中だった。こんなときに引っ越すなんて業者さんに申し訳ないな、と当時は思ったけれど、まさか2年たっても同じ気持ちを抱えながら引っ越しの手続きをしているとは思わなかった。営業再開したらすぐに行こう、と思っていたのに、結局シャッターが上がるのをこの2年でいちども見られなかったお店がいくつもある。

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引っ越してきたばかりのころ、スガシカオの『June』という曲をよく聴いていた。歌の主人公は新しい街に住みはじめたばかりで、新しく見る景色のすべてに胸を高鳴らせている。生まれた街の靴では歩きにくい、なんて歌詞はほんとうにドラマチックで、一方の私は実家から車で10分の街を履き古したスニーカーでウロウロと歩き回っているだけだったのだけれど、ふしぎと気持ちがリンクする気がした。

あのときと同じように、このごろもよく『June』を聴いている。来た道をあと戻りしても自分の居場所はもうないと思う、という歌詞の内容に、ああそうだ、と柄にもなく背中を押されたりしている。引っ越しは来週で、もうなかなか通らなくなるかもしれない駅の周りの細い路地を、目に焼きつけるように行ったり来たりしている。駅前の居酒屋の扉に貼られたポスターの虎の絵が、「春がくるね。ガオーッ」と叫んでいるのをきのう見つけた。

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      生湯葉シホ
      生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
      ライター・エッセイスト

      1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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