親の「どうでもいい嘘」の謎

12歳くらいまで、コンクリートミキサー車の回る部分の中では麺がゆでられている、と信じていた。たしか幼稚園の帰り道、父と近所の公園を歩いていたときに、ぐるぐる回るミキサー車の後部を見て「あれなに?」と聞いたら、「ラーメンだよ」と言われたのだ。「麺が絡まないように、ずっと回しながらゆでてるんだよ」。

あまりに平然と言うものだから、それがうそということにしばらく気づかないでいた。私はいわゆる「働く車」にそこまで関心のない子どもだったので、同級生が持っている絵本やプラモのなかにミキサー車の姿があっても、「あ、あれはラーメンの車だな」としか思わなかった。

親子
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いや、ラーメンの車ではない、と気づいたのがいつだったのか、はっきりと覚えてはいない。ただ、誰かに指摘されて赤っ恥をかいた……というようなことはなく、突然、魔法が解けるように「麺を? あの中で……?」と思ったのだ。

帰って父に確認すると、ほんとうにびっくりした様子で「そりゃコンクリートだよ」と言った。そのとき、私はずっと信じてたんだよ、と怒ったような記憶もうっすらあるのだけれど、あまりに些末さまつな嘘だったので、父も嘘をついたこと自体にピンときていないようだった。

「あなたは子どものころ、アルマジロだったのよ」

親というのは──と大づかみに言っていいものか迷うけれど、少なくとも自分の体験を含め、人から見聞きした話の中では、ときどきものすごくどうでもいい嘘をつく。「あんたは橋の下から拾ってきた子なんだよ」という定番の嘘に深く傷ついたことのある人の話はよく聞くし、親しか頼る存在がいない年齢の子どもにとって、それはあまりに悪質な冗談だとも思うのだけれど、私自身は「親がつくどうでもいい嘘」のことが実はけっこう好きだ。

アルマジロ
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ずっと信じていた親の嘘はあるかと人に聞くと、たいていみんな、先延ばしにし続けていためんどうな宿題を思い出したような顔になって、「あ〜、あるある。あれなんなんだろうねえ」と笑う。これまで聞いた話のなかでも、悪質性(?)が比較的低くて、特に私が好きなものをいくつか紹介させてもらいたい。

ある友人は親御さんから、「あなたは子どものころアルマジロだったのよ」と言われていたらしい。アルマジロなんて、なんでわざわざそんなマニアックなとこ選ぶんだ、と思ってしまうけれど、友人が小さいころ夢中になっていたテレビゲームにアルマジロのキャラクターが出てくるらしく、そのおかげで一家にとってはもっとも身近な動物のひとつだったという。

仮にそれが私だったら、仲のいい同級生や幼稚園の先生に「なんか私アルマジロだったんだって……」と打ち明けまくり、早期にそれが嘘だと気づいたのではないか、と想像する。けれど、その友人は寡黙でとても穏やかな人なので、小さなけがをして足を擦りむいたりするたびに、「もうアルマジロの体じゃないんだから気をつけなきゃ」とそっと思うにとどめていたらしい。

もうひとつ好きなのは、Iさんの話だ。むかし、ネットで知り合った趣味の友人数人と家でお酒を飲んでいたとき、BGMとしてつけていたテレビから、家電メーカーのCMソング「この木なんの木」が流れてきた。

なんとなく、みんなでその曲に耳を傾けて体を揺らしていると、Iさんが突然、「僕、子どものころ、『この木はお父さんが植えた』って親に言われてたんですよね」と言った。場は一瞬で爆笑に包まれ、日立の関係者なのかとか、海外に住んでいたのかとかいろんな質問が飛び交ったけれど、「なんかお父さん、『あれはおばあちゃんの高井戸の家の庭だ』って言い張ってて……」というIさんの言葉には、突き抜けた嘘が持つばかばかしさを越え、軽い感動を覚えてしまった。

「魔女なので」という母の嘘

嘘はいけない、嘘は人を傷つける、というのはとても正しいことだ。嘘はときに、そこに悪意がなかったとしても、ひとが世界に対して持っている根拠のない信頼感、フィット感のようなものを揺らがせてしまう。特に、幼いときに母や父の口から発せられた嘘の場合、ほんとうのことに気づくまでの時間の隔たりがあればあるほど、なにかを大きく損なったような感覚を覚えることもある。

けれど、親が子どもにでたらめなことを吹き込み、あまつさえそれを言ったことすら忘れてしまうとき、そこには、親子という閉じられた関係以外の世界に触れながらひとが育つということへの、あっけらかんとした期待というか、祈りがあるような気もする。

私が気に入っていた母の嘘は、父のそれよりもはるかにダイナミックだった。母は私によく、「ママは魔女なので」と言った。

魔女なので空を飛べるとか、変身できるとか言わないところも巧妙だった。ほんのときおり、たとえば夕食のメニューに食べたいと思っていたものが出てきたようなときに、「魔女なのでわかる」とだけ言うのだ。

忘れられないのは、クローゼットのことだ。母は服好きな人で、実家には納戸を改装して作ったウォークインクローゼットがあった。幼稚園のとき、私が寝室のカーテンに巻きついて遊んでいると、クローゼットのなかで服を選んでいた母が、「やめなさい、カーテンぐちゃぐちゃになるから」と言う。ちぇっ、と思っておとなしくカーテンのあいだから出ていくと、閉まったクローゼットから「下におやつあるよ」と声がした。嬉々ききとして急いで階段を下りる。すると、目の前に母がいた。驚きすぎて、わっと泣き出したのを覚えている。

大人になってから、一度だけ母にその話をしたことがある。魔女だからってずっと言われてたから、あれもなんかそういう魔術なんじゃないかって本気で思ったんだよ、と私が言うと、母は爪を切っていた手元からふっと顔を上げて、「まあ、魔女なのでね」と言った。

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      生湯葉シホ
      生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
      ライター・エッセイスト

      1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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