よくもまあ、こんなところまで

『ひも』という本を古書店で買って、すこしずつ読んでいる。縄文文様のなかのひもから帯や羽織のひも、数学のなかのひも、果ては中世の絵画に見られる首つりひもやマジックに用いられるひもまで、ありとあらゆるひもについて書かれた変わった本だ。著者は、包結研究家の額田巌さん。

ひもに特別な興味があったわけではないけれど、好奇心で手にとった。家に帰ってから、表紙の裏に「除籍済」のハンコが押されていることに気づく。古本を買い集めているとたまにこのハンコに出会う。ああ、誰にも借りられなさすぎてどこかの図書館から除籍になった本なんだろうな、と思いかけたが、よく見るとその下にもうひとつ、聞いたことのない大学の名前のハンコが押されていた。調べてみると、それはかつて関西にあった私立大学で、何度か名前が変わり、10年ほど前に廃校になってしまったようだった。

かすれきったハンコをでながら、そうかあ、と思う。大学の図書館のとり壊しが決まり、しかたがないから他のところに置かれることになって、どういうわけだかはるばる東京までやってきた『ひも』。この本がたどった道のりを考えると、気が遠くなりそうになる。

「ひも」のささやかで切実な願い

古書店の棚で『ひも』を見たとき、最初に連想したのは谷川俊太郎さんの詩だった。『ひも』という同じ名前の詩があって、そのなかでひもは古い恋文の束をくくる役割を与えられている。けれど、わけあってその束が燃やされてしまうと、ひもはすっかり自信を失ってしまう(なんらかの社会的な役割を果たしたいという欲求がひもにもあるんだな、とその詩をはじめて読んだとき思った)。

しかも、続編にあたる詩(『ひも また』)のなかでは「ひもはもう時代遅れ」と主張する輪ゴムに馬鹿にされたり、戦争に駆り出されたり、さんざんな目に遭う。ひものたったひとつの願いは、ちょうちょ結びにしてほしい、というあまりに素朴なものなのに。

谷川俊太郎の詩集のなかでその詩に出会ってから、ひもを見ると妙に緊張するようになってしまった。ひも、というか、もの全般に対してうっすら緊張する。すべてのものには魂がある、というアニミズム的なことをあまり思うほうではないのだけれど、グアムのお土産にもらった謎の仮面のかたちのマグネットやら、古道具屋で300円で買ったコップやら、複数の人の手を渡ってここにやってきたであろう物をじっと見ていると、うちで大丈夫だったのかな、とソワソワしてくる。

ヴィンテージものが好きな友人は「いろんな人の手元にあったものがいまここにある、っていうのがいいんだよ」と言うけれど、私はどちらかというと、こんな家の冷蔵庫の脇で輪ゴムを留めるために生まれたんじゃない、ってもし思われてたらどうしよう、と不安になってしまう。それを聞いた友人は、「思ってたよりも遠くに行けたら私だったらうれしい。グアムで生まれてグアムで買われるより、よくわかんないアジアの国のよくわかんない冷蔵庫に貼られたいじゃん」と言っていた。オッ冒険家だな、と思う。

はるばるやってきた眼鏡拭き

生湯葉シホの生の声
写真はイメージです

少し前に、恋人に古い眼鏡拭きをもらった。どんな文脈でそんなものをもらうことになったのかよく覚えていないのだけれど、「いくつか持ってるから古いやつあげる」というような流れだったと思う。

古いとはいえ問題なく使えるので、家で眼鏡をかけるときは手元に置いている。眼鏡拭きの表面にはチェーン店らしき眼鏡屋さんの名前が印刷されているのだけれど、先日、なんの気なしにその店名を検索してみたら、恋人の故郷にあるショッピングモールの画像が出てきた。眼鏡店は、その2階に、かつてあったらしい。

小学校か中学のときにショッピングモールに眼鏡を作りにいって、たしかそのときにもらったんだと思う、と彼は言っていた。私の知らない子どもの頃の話が聞けるのはなんだかうれしく、時間が透きとおるようなふしぎな気持ちになった。

その眼鏡拭きを使うたびに、行ったことのない山の上のショッピングモールのなかの、小さな眼鏡店で眠る無数の眼鏡拭きたちのことを想像する。よくもまあこんなところまで来たね、と声をかけたくもなるときもある。眼鏡拭きにとっては不本意かもしれないのだけど、私が唯一できるのはたくさん使うことくらいだ。だから最近は、眼鏡がいつもぴかぴかしている。

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      生湯葉シホ
      生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
      ライター/エッセイスト

       1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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