そんなのみんなどこで習うの? 生活の中の「死角」

何年か前のこと。クリーニングから返ってきたスーツがそのまま床にでろんと広げられているのを見て、「しまっちゃったほうがいいんじゃない? シワになるから」と声をかけたことがある。当時のパートナーは、読んでいた本から顔を上げて「え」とつぶやいた。許可をもらってスーツからハンガーを外し、「このハンガー微妙だから、ほかのやつに替えたほうがいいと思う」とクローゼットから別のハンガーを探していると、「どうして……?」と深刻そうな顔で聞かれた。

「はさむ力が強すぎるハンガー使うと、その部分だけ布がへこんで跡になっちゃうことない?」。私がそう言うと、彼は心底びっくりしたという感じで、「あるなあ、たしかにある」とうなずく。聞けば、床に洋服を無造作に置いておいたり、締めつけが強い状態で収納をしつづけたりしているとシワができる、という発想そのものがなかったらしい。彼は、そんな話をしたあとちょっと悲しそうな声になって、「そんなのみんなどこで習うの?」と言った。

生活のなかの「死角」のこと

その言葉を、このごろ折にふれて思い出す。すこし前に、Twitterで漫画家の方が「『胸元も肘もビシャビシャになるから洗顔がめんどくさい』と言う同居人に、ビシャビシャにならない顔の洗い方を教えた」という趣旨の漫画をツイートしていたのを見た。その方いわく、両てのひらに水をめ、掌の底を顎につけるような姿勢で洗顔すれば体がビシャビシャになるのを防げるのだという。

ツイートを見た瞬間驚いて、すぐに洗面所に向かった。半信半疑で試してみると、たしかに手のなかに水の流れが留まり、胸元や肘まで垂れてこない。私は毎回、ビシャビシャになるのが嫌で上半身だけ服を脱いだ状態で洗顔をしていたのだけれど、こんな画期的な方法があったなんて、と感激してしまった。思わず母にLINEで「すごいことを知ったんだけど!」とその件を伝えると、母から返ってきたメッセージは「そりゃそう」。あまりのそっけなさに、そんなのみんなどこで習うの、というあの言葉がサッと頭をよぎった。

ライフハックという言葉の枠のなかで提供される情報のジャンルは、年々広がりつづけている。麺の上手なすすりかたとか、手足の血行をよくしてから眠りにつく方法とか、親しくない人とエレベーターに乗り合わせてしまったときの沈黙の回避のしかたとか、私たちはほんとうに、生活を便利にするための多種多様な方法をWEBや書籍を通じて知ることができるようになった。それでもなお、何人ものベテラン校正者の目を通しても見落とされてしまう、しぶとい一文字の誤植のように、生活のなかには自分にとっての「死角」のような場所が存在するのだと思う。ほかの人には、意識せずともふつうに見えているその場所が、なぜか自分にだけは認識できなかったり、あるいはどれだけ観察しても、ぼんやりとしか見えてこなかったりする。それは基本的にどれも「習わない」ことだから、私たちはその存在に気づいたとき、「じゃあみんなはいつから知ってたの」と途方に暮れてしまう。

みんなどうやって音楽にのってるんだろう

画像はイメージです

同じような悩みは、特殊なシチュエーションを味わうことが多い職業の人のなかにもあるらしい。

知人のバーテンダーは、ときどき彼の職場に現れる、「その場にいるすべての客の会計を代わりに支払って帰っていく粋な客」に毎回悩まされているという。「いつも静かにおひとりで飲まれている、ほんとにありがたいお客様なんですけど……」と彼。聞けば、その客が「全員分で」と会計を済ませて帰ったあと、そのことをほかの客に伝えるタイミングがいまだにどうしてもわからないのだという。

「緊張しちゃうんですよね。『もう会計はお済みです』って台詞せりふ、ドラマのなかのバーテンダーっぽいじゃないですか。いつどうやって言えばいいんだろうってすごいドキドキしちゃって」という彼の言葉には思わず笑ってしまったけれど、そうだよなあ、そんなの誰も教えてくれないし、バーテンダーの先輩に聞くのもなんか違う感じするもんなあ……と同情してしまった。

つい先日は、移動中にたまたま聞いたラジオで、あるミュージシャンがこんな話をしていた。

「俺、ライブのときいまだに体をどう揺らしていいかわからないんですよ。音にのらなきゃって思うとすごい不自然になっちゃう。みんな、ギター弾きながら踊ったり小刻みに揺れたりしてるけど、あれ本当にどうやってるんだろうって思って……」

そのミュージシャンは20年以上のキャリアを持つ人だけれど、言われてみればいつも直立不動でギターを弾いている気がする。なるほどなあ、そんなこと思ってたんだ、と勝手に親近感が湧いてしまった。そういう、些細ささいだけれどくだらないとも言いきれない生活のなかの小さな悩み、みんなもっともっと聞かせてくれればいいのに!

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    生湯葉シホ
    生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
    ライター/エッセイスト

     1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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