建前は“嘘”なのか 本音を言うことは別にえらくないと思う理由

すごくショックを受けたことがある。

数年前、小規模なトークイベントに参加したときのこと。登壇者も参加者も少人数で、両者の垣根なく意見を交換できるような和やかな雰囲気のなかでそのイベントは進行していた。会のなかでふと、「地域と医療」について話題が及んだとき、登壇者のひとりが客席に向かってこんな質問をした。

「みなさんの地元で精神病院の新設が検討されているとしますよね。私は反対しません、積極的に賛成しますって方はどのくらいいますか?」

客席の半分ほどの参加者の手が挙がる。すると登壇者は、「このアンケートが完全に匿名のもとでおこなわれていると仮定してください。誰が反対したかは周囲にわからない。それでも賛成するって方はいますか?」と畳みかける。ばらばらと何名かの手が下がり、手を挙げたままでいるのは私ともうひとりの参加者のみになった。

登壇者は私たちふたりを一瞥いちべつして「なるほど」と言い、「……まあ実際にアンケートをとったら、本音では新設反対っていうことになると思うんですね」とつづけた。さも、いま目の前でとったアンケートなどはじめから存在しなかったみたいに。

「建前のほうがよほど大事」じゃないか

「毒舌タレント」「毒舌キャラ」という言葉をさいきんあまり聞かなくなった。毒舌、というものが昔ほど無批判におもしろがられなくなってきたという時代の変化もあるだろうけれど、そういったコミュニケーションそのものが鳴りを潜めたわけではなく、過激な言動で人の気持ちをあおることを芸風にしている人たちは変わらずにいる(おもな舞台をテレビからSNSやYouTube、客層が固定されているイベントに移して)。

「本音では〇〇ですよね」「コンプラ的にまずいかもしれないですけど、実際みんな〇〇じゃないですか」というのがその人たちの常套句じょうとうくだ。「低学歴の人って、すべき努力を怠ったからいま生活に苦しんでるんだと思う」「子どもいる女の人、すぐ休むから正直いらつくことあるじゃないですか」。そうやって強い口調で、テンポよく、どもったりんだりすることなく繰り出された言葉は、一定のファンを生む。ファンはその人たちの発言を「誰にも忖度そんたくをしない、本質を突いた言葉」だとありがたがる。たとえそこに差別的な意図が含まれていようとも、建前抜きの「本音」を正直に言うことにこそ価値があると考える人は思いのほか多い。

けれどそもそも、その「建前」とはなんのためにあるのだろう。言ってはいけないこと、してはいけないこととは当然、それを言われた/された対象の権利が侵害されたり、傷ついたりするのを未然に防ぐためにある。それでも、自分の素直な感情に基づいた「本音」のほうを大切に思うのは自然じゃないのか、そっちを選んでなにが悪いんだ、と感じる人もいるかもしれない。

私もこれまで、自分の本音を大事にするなと言うのかと問われると、言葉に窮してしまっていた。けれどあるとき、クィア・スタディーズや差別問題の研究をしている社会学者の森山至貴さんによる本のなかで「本音」と「建前」にまつわるこんな言葉に出会い、ああそうか、とに落ちる思いがした。

“感情的でもあり、未熟でもあり、欲求に突き動かされもする私たち個人の本音などより、互いの権利を侵害せず節度を守ってやりとりするために人々がつくり上げた建前のほうがよほど大事なのです。”
──森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』より

建前があるから人間社会は成り立っているイメージ

本音を言い合うことの尊さばかりが強調されがちだけれど、たしかに、「建前のほうがよほど大事」だ。私たちはどうしたって、無知や誤解から、人や属性に対して差別意識を持ってしまうことがある。不用意に口に出されるそういった差別や偏見から個々人の心を守るために「建前」はあるのだ。じゃあ、実際には思ってもいないことでも「建前」として言うべきなのか、と問われたら、そうすべきだと私は答える。自分の実際の気持ちと建前とのギャップが気持ち悪くてしかたないのだとしたら、むしろ自分の「本音」のほうを建前に近づけていくための努力をすればいいのだと思う。

嘘偽りのない「本音」であるかどうかよりも

冒頭のトークイベントの件で覚えた居心地の悪さや失望感は、その後しばらく私のなかに残りつづけた。ショックだったのは、会場の多数派の人が「反対」派だったことよりもむしろ、そのアンケートを提唱した登壇者が、「本音では全員『反対』にちがいない」と頑なに信じていたことだった。

「本音」なるものの落とし穴はそこにもあると思う。つまり、実際には全員に共通した「本音」なんてそもそも存在さえしないのに、自分が多数派の立場に立っているときは、なんとなくみんなが同じような本音を持っていると感じてしまう。

ほんとうはたぶん、私たち一人ひとりのなかに少しずつ異なった差別意識や偏見があるだけで、それが他者と完全に一致することなんてありえない。だから、そのイベント会場で挙手をした私ともうひとりの参加者は、その登壇者の目にはおそらくうそつきに見えていたのだろう。しかし私たちふたりは、登壇者が話題をらしたあとも、そのまましばらくぼんやりと手を肩のあたりまで挙げつづけていた。私は実際に賛成だったから挙手していた。けれど、それがほんとうに嘘偽りのない「本音」であったかどうかより、手を挙げていた、ということそのものが重要だったのだと思う。私たちふたりはまったくの他人だったけれど、そのとき目を合わせ、お互いに小さくほほえんでいた。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター/エッセイスト

 1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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