「自分にだけ見えていない」の怖さ ある人々を結びつける“当然”

友人と話していて、ホラー映画の話になった。彼女はすこし前に「どこにいても誰と会っていても、常に自分ひとりにだけ赤帽の男が見える」という設定のホラーを見たらしい。「赤帽の男」という、イメージできそうでできない対象が妙にリアルでおそろしい。こわいね、と言うと、「でも実際、見えちゃいけないものが自分にだけ見えるより、ほかの人に見えてるものが自分にだけ見えないっていうほうがこわくない?」と言う。

ああたしかに、と思った。有名な例を挙げるなら、『ズンドコベロンチョ』。優秀かつ傲慢ごうまんで、俺に知らないことはないと自負していたサラリーマンの主人公が、自分の周りの人々が突如一斉に使うようになった「ズンドコベロンチョ」なる言葉の意味がわからず、それを探り当てようと半狂乱になるという『世にも奇妙な物語』の傑作ストーリーだ。そういう、場の全員がいつの間にか前提として共有している文脈に自分だけがどうしてもアクセスできない、という状況には、「いる」とか「見える」というシンプルな恐怖感を超えるおそろしさがあるよなあと思う。

シム先生をめぐって開かれた学級会

ほんとにズンドコベロンチョみたいな状況になったらこわいよねえ、という話を友人としていて思い出したのだけれど、私はそれを小学生のときに味わったことがある。

たしか高学年、4年生か5年生の春だったと思う。ネイティブの先生が担当してくれる英語の授業がはじまったばかりで、はじめての本格的な「英会話」らしきものとの出会いに、クラスメートたちも私もみんな浮かれていた。英会話のシム先生は、毎回違うキャラクターもののネクタイをつけてきては授業でそのモノマネをしてくれるような陽気な人で、生徒たちはみんなシム先生のことが大好きだった。

事件は、授業中に起こった。はっきりとは覚えていないが、いつものようにジェスチャーを使ったクイズをしたり、英語のアニメを見たり、ごくふつうの45分のカリキュラムが進んでいたように私には感じられた。感じられた、というのは変な表現だと思うけれど、実際にその日の授業のことを何度思いかえそうとしても、私には「ふつうのたのしい授業の日」だったという印象しか残っていないのだ。ふざけたり同級生とおしゃべりしたりしていた生徒もほぼおらず、ただいつもの穏やかな時間が過ぎていくのを感じていた。

授業の終盤、シム先生がとつぜん立ち上がり、ハア、と大きなジェスチャーでため息をついた。それから、「ごめん、もう先生は職員室に帰ります」というようなことを言った。私はあまりの急な展開にそれを冗談だと思って笑いかけたのだけれど、周りを見ると、全員血の気が引いた顔をしている。えっ? と思った。誰かがすぐに「アイムソーリー、シム」と大きな声で言い、ほかの生徒もそれに続いた。泣きそうな顔でシム先生のもとへ駆け寄ろうとする生徒もいる。しだいに教室全体がアイムソーリー、の波に包まれ、私はそのなかでただ呆然ぼうぜんとしていた。シム先生はそれでも落胆した顔のままで首を振り、なんと、ほんとうに職員室に帰ってしまった。

その日の「帰りの会」で、シム先生の授業のことが議題に挙がった。シム先生が悲しんで職員室に帰ってしまったことを日直の生徒が話すと、担任の小山先生は「みんながこれからどうしたいかこの会で話し合おう。ひとりずつ当てていくから意見を教えて」と言った。当てられた生徒たちはみんな口をそろえ、「私たちは授業でぜったいにしてはいけないことをしたと思います」「シム先生に謝りに行きたいです」と言う。黒板に書かれた「あやまりにいきたい」という文字の隣に、日直の生徒が「正」の字を1本ずつ足していくのを見ながら、私はしずかに絶望していた。どうしよう、どうしよう、と心拍数が上がっていく。

生湯葉シホの生の声14回目。自分だけ状況が把握できないイメージ写真

じゃあシホさん、と指されたとき、私はとっさに「状況がわかりません」と口に出していた。小山先生は怪訝けげんな顔で言う。

「どうして? みんながいけないことをしたからシム先生は悲しんでしまったんだよね?」
「でも……なにが起こってるのかわかりません」

混乱のなかで、の鳴くような声でそう答えたのを覚えている。私にはクラスメートたちから一斉に冷たい目が向けられ、黒板には「じょうきょうがわからない(??)」という文字が書き足された。その「??」マークを見ながら、比喩でなく、背中に冷や汗がツーッと流れていくのを感じていた。結局私には、その日の授業でなにが起きていたのか、私たち生徒がなにをしてしまったのか、最後まで理解できなかった。

気づかれないよう、しずかに後ずさりするしかない

シム先生の授業の話は、こうして自分で書いていてもわけがわからない。10歳くらいの子どもなら、仮にその瞬間になにが起きたのかわからなくても、同じ授業を受けていたクラスメートに状況を確認することくらいはできそうなはずだ。けれど、覚えている限りあの日の英語の授業から帰りの会に至るまでの時間には終始ほんとうに深刻なムードが漂っていて、だれかに「え、私たちなにをしたの?」と聞けるような余地は、どこにもなかったのだ。場にあらかじめ「あまりにも当然のもの」として浸透しているルールや情報は、それがどれほど奇妙でねじれたものであっても、強い磁力で場にいる人たちを結びつける。いちどでも「??」と感じてしまった側はその人たちから気づかれないよう、しずかに後ずさりするしかない。

そういえば数年前には、こんな経験もした。

都心に向かうバスに乗ると、ランドセルを背負った低学年くらいの女の子ふたりが運転席の見える位置に立ち、たのしそうにヒソヒソとしゃべっている。日常的にバス通学をしているのか、近くに保護者らしき人もいない。小さいのにえらいなと思いながら彼女たちの近くの席に座ると、会話の断片が聞こえてきた。どうやら彼女たちは、「バスの運転手さんはすごい」という話をしているようだった。

「バスさあこんなに大きいのに、ひとりで運転してすごいよね」とひとりが言うと、もうひとりが「すごいよねー」と言う。ほほえましい。たしかにすごいよね、と思いながら鞄のなかから本を取り出そうとしたとき、最初のひとりが言う。

「電車はぜんぜんもっと多いもんね」

え、そうなのか、車掌さんって複数名いるものなのか、と思っていたら、

「電車と電車のあいだに人がはさまってるもんね」
「ねー」

と続いた。あ、この話はこれ以上聞くとまずい、と反射的に思う。私から見えている世界とはちがう秩序にもとづいた話だ。逃げたい。鳥肌が立ってきた。けれど私がいちど座ってしまった席の周りにはどんどん人が乗り込んできて、小学生ふたり組はその波に押され、たのしそうな顔で、ますますこちらに近づいてくる。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター/エッセイスト

 1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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