「褒めて」とわざわざ言うこと 見てほしい私たち

あれはなんだったんだろう、といまだにときどき思い出すことがある。

高校2年生のとき、部活を引退する先輩たちのために開く送別会のプログラムについて、同級生と打ち合わせをしていたときのこと。開会の辞、ミニライブ(軽音楽部だった)、先輩たちからの挨拶あいさつ……といったおおむね例年どおりの仮プログラムを前にして、部長をしていたOちゃんが、「YとMへの感謝のコーナーもここに入れない?」と言った。YとMというのは、寄せ書き用の色紙や花束を調達するなど、送別会の準備を中心になって進めてくれていた同級生の部員だった。

感謝のコーナー? と怪訝けげんな顔をするほかの部員たちに、Oちゃんは「会を準備してくれてありがとう、って伝えるコーナー」と言う。「え、それは内輪でやればよくない?」と部員のひとりが言い、10人ほどいた部員のうち2人がそれにうなずいた。どうして人数まではっきりと覚えているかというと、うなずいた数少ない部員のうちのひとりが自分だったからだ。

ふしぎだったのだ。だって、YとMが打ち合わせに参加しておらず、サプライズ的にその演出をするというのならまだしも、YもMもその場にいたのだから。ふたりがどんなリアクションをしたのかは覚えていないのだけれど、反対はしなかったはずだ。私はちょっと驚き、その感謝はいま伝えるんじゃだめなのか、なぜ会の主役である先輩たちの前でわざわざ企画者に光を当てる必要があるのか……というようなことを言った。Oちゃんの答えはシンプルで、「うーん、でも、したほうがよくない?」だった。それで実際に「感謝のコーナー」は送別会のプログラムに入り、会の中ごろでYとMへの感謝が伝えられた。

言いたいのに言えなかった

そのとき感じたなんとも言えない居心地の悪さを、大人になっても頻繁に思い出す。あまりによく思い出すから、自分はなににモヤモヤしているんだろうと考えつづけた結果、さいきん気づいた。あれは、私が偏屈だったのだと。

むかしから、企業が実施するくじやキャンペーンの宣伝文句として、「総額○百万円が当たる!」というコピーが使われることに不満があった。総額ってなんだよ、「○百万円」そのものが当たる人は存在しないのだから、ひとりあたりの当選可能金額を言ってくれればいいのに。「総額」って完全にそちら側の事情じゃないか、なんでわざわざ開示してくるんだ、と思っていた。

大人になったいまは、消費者心理として大きい額が提示されていたほうがキャンペーンへの参加意欲が湧くんだろうなとか、そもそもルールとして総額の表示義務があるのかもしれないとか、背景で起きていることも想像できる。けれどもっと手前の話として、「そちら側の事情」をわざわざ見せられること、言い換えるなら、功績や手柄を自己申告することにいらついてしまう自分に問題があるんだな、と思う。

さらに振り返れば小学生のころからそうだった。掃除の時間、よく働く下級生を見つけるとおんぶして遊んでくれる面倒見のいい上級生がいたのだけれど、私は彼女に見つけられたくて誰よりもがんばって教室の床の水拭きをしていたのに、「窓ピカピカになった~!」と自己申告するクラスメイトばかりがえらいねと褒められてはおんぶをされていて、「ク、クソッ……!」とひそかに思っていた。窓なんか立ちっぱなしでできるから全然えらくない、こっちは足腰痛めながら床拭いてるんだぞと、褒めてもらうのがうまい子どもたちのことが憎らしくてしかたなかった。「私もえらいからおんぶしてください」と言いたいのに言えなかったんだな私は、と気づいたのは、はずかしいけれどここ数年のことだ。

さいきんSNSなどで、夫婦やルームシェアをしている人たちが気分よく同居をするためのコツとして、「気づいたほうが(掃除などを)やる」ではなく、お互いの担当をきちんとルール化し、自分がした家事は自己申告する、というやりかたが推奨されているのをよく見る。そうだよなあ、それってすごく大事だよなと感じる。10代のころ、母が「あんたの制服のシワ、なんか伸びてるなって気がしない?」とたびたび言ってくるのがちょっと鬱陶うっとうしかった記憶があるのだけど、そう言ってくれなければたぶん、私は「アイロンかけてくれてありがとう」と自分からは言えなかったと思うのだ。あれは母なりの「感謝しなさい」だったし、アイロンをかけるたびにセットでそう言い続けてくれたことに、私はいまさらだけれど感謝している。

私もいつかああ言えるようになりたい

ただ、モヤモヤしなくなったことと自分でそれをできるようになることはやや別物のようで、私はいまだに自己申告が下手だ。恋人や家族にはできるだけするようにしているのだが(さいきんだと確定申告をぶじに終えたのでパーティーを開いてほしいと言った)、誰にもなにも言わずにひっそりとやるべきことをやるのが格好いい、という価値観を内面化してしまっているのか、排水溝を念入りにきれいにしておいたとか、単4電池のストックを買っておいたというようなことを、言えばいいのに言えないでいる。そういう自分をダサいと思う。

きのう、緊急事態宣言が明けて久々に再開されたバンドのライブに行き、東京でのライブが久しぶりでどこかソワソワしているバンドメンバーたちを前に、こちらもなんだかソワソワしていたら、キーボーディストがMCでこんなことを言った。

「ここ最近、レコーディングしたりライブのリハをしたりしててももちろん楽しかったんだけど、ずっとなにかが足りないなと思ってて……なにが足りないのかさっき気づいたんです。僕は見られたかったんだな、こう、大勢の人に見られながら演奏するっていうのが足りてなかったんだなって」

ライブに行ったイメージの写真

コロナ禍におけるガイドラインとして、いまのライブではマスク着用と発声禁止が義務づけられているから、客席から笑い声はあがらない。でも、客席全体がどっと体を揺らすのが見えた。ボーカルが「見てやってください」と笑うと、キーボーディストは「僕らみ~んな見られるの大好きですからね!」と追い打ちをかけるように言う。彼らは演奏しているあいだ、ほんとうにずっとうれしそうに、気持ちよさそうにしていた。格好いいなあ。私もいつかああ言えるようになりたい、と心から思う。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター/エッセイスト

 1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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