踏み越えてきてくれる人の優しさに救われたこと

情けなさと恥ずかしさとで、思い出すたびに悶絶もんぜつしそうになる記憶がある。

大学1年の春、軽音サークルの部会でのこと。私含む新入部員たちは輪になって、楽器の扱いかたや運びかたに関する説明を先輩から受けていた。アンプを積むときはスピーカーの面を上にしないで。ケーブルはぐるぐる巻かないでかならず8の字巻きに……と複雑な説明がつづき、皆が自然にリュックサックから手帳やノートを出してメモをとりはじめたとき、隣に座っていたみさきが小声で言った。「あ、やばい、紙ない……」

私の手元にはスケジュール帳があった。いままさに文字を書き入れようとしていた5月のメモ欄は、見開きで2ページ分。1ページを切り離してみさきにあげようかと思ったけれど、そのメモ欄の裏は5月のカレンダーになっているから、ここを切ってしまうとあとからちょっと困る。どうしよう、うしろのほうに真っ白いページついてなかったっけ。ていうか私ルーズリーフ持ってなかったっけ……とかばんに手を入れようとしたそのとき、みさきから見て輪のいちばん遠くに座っていたなつきちゃんが、「はい!」とみさきのほうに手を伸ばして紙の切れ端をわたした。

なつきちゃんの反対の手には、ちぎられたスケジュール帳があった。カラフルなキャラもので、1ページ1ページぜんぶイラストが違う凝ったノートだった。そんなふうに1枚だけちぎったらノートの根元がガタガタになっていやじゃないかとか、イラストの面積が多いぶんメモをとれる余白が意外と少ないのではとか、一瞬であらゆる邪念が頭をよぎる。けれど、みさきの「なっちゃんありがとう!」というあかるい声で我に返った私は心のなかで絶叫した。ちがう、そんなこと死ぬほどどうでもいいんだよ!

とっさに手を出してくれたほうが、うれしいに決まっている

街中でなにかを落としてしまった人が視界に入った瞬間、緊張がやってくる。落とした当人が気づかないでいるときはさすがに迷いなく声をかけるけれど、当人も周囲の人もそれにすぐ気づき、ありゃ落としちゃいましたね、さて何人で拾いましょうか、みたいな空気になっているときがいちばんどきどきする。

「ア、ア、どうしよ、助けたい……けど遠い、私の位置からはやや遠いよ……4人もいても邪魔なだけかな、ア、でも思ったより向こうのほうまで5円玉転がっちゃってるよ……」と頭のなかで無駄な実況をしている数秒のあいだに、私より遠い席にいたはずの人が拾うのをスッと手伝っていたりする。

そういうシーンがやってくるたび、なつきちゃんのことを思い出す。たとえ紙の余白が少なかろうが切り口がガタガタになろうが、とっさに手を出してくれたほうがうれしいに決まっているのだ、自分だってそうされたらうれしいんだから。頭ではわかっているのに体が動かない自分に気づくと、いつも悔しさで顔が熱くなる。

すこし前に、難病を患って長年闘病していた人が、こんなことを話していたのを聞いた。「病人に『がんばれ』って声をかけちゃいけない、みたいなことよく言うじゃないですか。ただでさえがんばってる病人に失礼だし、傷つけるからって。でも私は入院中、友だちがふと言ってくれた『がんばれよ』にすごく励まされたことがある。人間は弱いから、ときにはそういう同情みたいなものがないと生きていけないんじゃないかと思うんです」

その話に、ふしぎと涙が出そうになった。ある。あるよなあ、と思う。こういう立場の人にはこういうことを言わないほうがいい、という会話のセオリーのようなものが存在するとして、そのセオリーからあえて逸脱しようとしてくれた人に、驚くほど救われること。

離婚した直後、落ち込んでいる自分にとっていちばんありがたかったのが、友だちからまっ先に送られてきた「ヒュー!」というLINEだったのを思い出す。「ヒューじゃねえよ」と思わず笑いながら口に出したとき、朱肉のようにふわふわとしていた地面の感触が、ようやく現実的な硬さを帯びて足に伝わってきた。

気遣い屋の友だちだから、その言葉に私が傷ついたり、不快に思ったりする可能性がまったく頭によぎらなかったなんてことはおそらくないはずだ。それなのによりによって「ヒュー!」って。すごい、なんてやさしいんだろう。やさしい人というのは踏み越えてきてくれる人かもしれない、とはじめて感じたのは、たしかそのときだった。

「ヒュー!」に心底あこがれる

会話のなかで、こう言ったら失礼かなとか、いまのツッコミ待ちのボケだったのかな……というシーンが訪れるたび、私は情けなくオロオロしてしまう。ほんとうは私も「ヒュー!」を言いたい。いや、さすがに言えはしなくても、ヒュー!  的態度には心底あこがれる。先日、知人にそう相談したら、「向いてないからやめな」とはっきり言われてしまった(ただ、「ヒュー!  って絶対言わない人に救われることもあるから」とのことだった)。

とはいえやっぱり、人が落としものをしたときくらいは機敏に動ける自分でいたい、と思うのだ。だからさいきんは、なにかを落としてしまった人を街で目にしたら、距離とか周囲の人数とかはもういっさい考えず、一直線に助けにいく、というルールを自分に課すことにした。そうやって形状記憶させるみたいにしないと身についていかないことが、たぶん生活のなかにはたくさんあると思うから。

だからもし、あなたが東京のどこかでものを落としたとき、拾おうとしたその瞬間に道の向こう側から猫背の女が猛スピードで走ってきても、怖がらないでくださいね。

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生湯葉シホ
生湯葉 シホ(なまゆば・しほ)
ライター/エッセイスト

 1992年生まれ、東京都在住。Webを中心に取材記事の執筆やエッセーの執筆をおこなう。ブログ:yubalog.hatenablog.com Twitter:@chiffon_06

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