京都といえば舞妓を連想する人は多いでしょう。日本髪に振り袖、だらりの帯の若い女性は古都の伝統美をイメージさせます。しかし、そうした図式が定着したのは、実はそれほど昔の話ではない、と知ったら意外ではありませんか? 京都市街の中央に位置する京都文化博物館の「舞妓モダン」展は、絵画などで表現された舞妓像の移り変わりを通じて、花街に生きた少女たちが、アーティストからどのようなイメージを託されてきたのかを探るという興味深い試みです。本展を企画した植田彩芳子学芸員の解説に沿って、見どころを紹介します。

描かれなかった? 明治以前
舞妓とは遊興の席で舞を務める少女のこと。芸妓の見習い、という位置づけです。文献や資料で、その存在が確認できるのは17世紀まで遡ります。八坂神社社頭の茶汲み女が歌舞伎芝居の芸を真似、参拝の旦那衆に見せたのが始まり。井原西鶴の「好色一代女」には、万治(1658~61)のころに駿河国から出てきた座頭酒落という人物が京で風流の舞曲の芸を教えると、少女たちが習いはじめ、それが舞妓になったと触れています。滝沢馬琴の書物には年齢について、「十歳ばかりより十八九まで」とあります。
植田学芸員は「江戸時代の絵画には、芸妓なのか舞妓なのか絵面では判然としないものが多い。現在の舞妓と同じような姿(だらりの帯、おこぼ、割れしのぶ、振り袖、肩上げなど)をした若い女性を絵画で見つけることもできますが、それが町の商家の娘なのか、舞妓なのかを区別するのも難しいのです」と話します。少なくとも、明治以前は舞妓が描かれるべき存在として強く意識されてはいなかった、とは言えそうです。
経済対策で舞妓が古都の前面に
「都をどり」といえば古都の春の風物詩。幕末明治の政変や遷都で疲弊した京都を活性化しようと、明治5年に開催された博覧会の余興として茶席などが催されました。この際、京都府参事の槇村正直(のちの府知事)が祇園側と相談し、花街の女性が踊子をつとめるイベントとして開催されたのが「都をどり」でした。公の機関と花街の連携は歴史的にも画期的な出来事といい、街おこしの一環で芸舞妓が表舞台で脚光を浴びることにもなりました。

翌6年に、竹内栖鳳(1864~1942)ら多くの若手を育てた円山四条派の大家、幸野楳嶺が描いた花街の女性。植田学芸員は「振り袖に朱色の帯をだらり結びに締めており、格好からしても舞妓でしょう」と話します。

木戸孝允や西園寺公望、伊藤博文ら明治の元勲が贔屓にしたという花街の女性の加代。日本洋画界の先駆者、田村宗立の『加代の像』が出品された明治12年の展覧会には、他にも舞妓の加代を描いたと思われる作品が複数紹介されており、大変な人気ぶりだったことがうかがえます。

こうして有力作家たちが舞妓を描く時代が訪れました。その存在がアートの素材としてクローズアップされてきたことが伺えます。
西洋の目線で、巨匠が「発見」した舞妓
舞妓を初めて本格的に画題に取り入れ、発展させたのは黒田清輝(1866~1924)、竹内栖鳳という「洋」「和」それぞれの巨匠でした。
明治26年に9年間のフランス留学を終えて帰国した黒田は、その直後に京都を旅しました。そこで見た舞妓を「実に奇麗なものだと思ひました(中略)奇麗な触はつたら壊れそうな、一つの飾物」と振り返り、完成したのが『舞妓』です。西洋人が見つめるような視線で「発見」された舞妓の姿。舞妓の表現史上も記念碑的な作品のひとつといってよいでしょう。人工美、装飾美の極致としての人形のように美しい舞妓像のはしりでもあります。このモチーフはその後、様々な作家たちが繰り返すことになります。

京都画壇で重鎮としての地位を固めつつあった栖鳳が世に問い、好評を博したのが『アレ夕立に』という作品。モデルになった舞妓の浅子は当時、12歳。写真に記録された当時の浅子の顔立ち(会場には展示)はかなり幼く、作品から受けるイメージとの乖離にびっくりします。栖鳳はこの華やいだ衣装を着けた少女を描くにあたって、「困難があった。それは姿の不自然なことです」と率直に打ち明けました。「その不自然なところに畢竟舞妓の美と申すものがある」とも述べています。
「不自然な舞妓」の現実は変えられない。一方で美しく感じてしまうその姿を描こうとバランスを取った結果が、この顔を隠した構図、なのかもしれません。男性目線で過剰に理想化された舞妓像、と言ったら言い過ぎでしょうか。

会場にはこの作品の下絵も展示され、栖鳳の創作過程を垣間見ることができます。下絵が公開されるのは珍しく、貴重な機会です。
誰もが認める美人画の第一人者で、京都に生まれ育った上村松園(1875~1949)。ところが、見慣れていたであろう舞妓を、展覧会出品作としてはあまり描いていないのは興味深いことです。しかし、数少ない作品は、さすがの完成度です。格調高く、美人画に「真・善・美」を求めた松園にとって、舞妓の姿はどこか違和感があったのでしょうか。

多様化する舞妓像
理想化された舞妓像ばかりだったわけではありません。夭折した岡本神草(1894~1933)の代表作『口紅』は、艶っぽい舞妓を描いて賛否両論を巻き起こしました。紅や襦袢の赤、着物の黒、白い肌、とコントラストが強烈で、目を伏せ、両腕を出して、膝をついた姿勢も、お座敷の舞台裏を覗いたようななまめかしさがあります。新しい女性像と称賛する声も多く、竹内栖鳳も評価しました。

マルチな才能で一世を風靡した竹久夢二(1884~1934)も舞妓に魅了されたひとり。舞妓をテーマにした長田幹彦の小説や、吉井勇の歌集の装丁を多く手がけるなどし、「メディアミックス」で世間の舞妓の認知度を上げることに大きく貢献しました。自身も茶屋で遊ぶこともあったといいます。

着替えや昼寝など、花街の女性たちの日常を赤裸々に描いた絵巻物風な作品もあり、夢二の入り浸りぶりが想像できてしまいます。
百花繚乱 舞妓の美
お人形さんのように無垢な聖女なのか、それとも妖艶で男を誘惑するかのような存在なのか。対照的なイメージを投影されつつ、舞妓は画壇の一大テーマになっていきます。大正から昭和と表現が進化して見ごたえのある作品が次々と登場し、まさに百花繚乱の趣き。会場を歩きながらわくわくします。
新しい「発見」 そして現代
戦後、舞妓像も新しい時代の風を受けて変化していきます。
京都生まれの女性画家、広田多津(1904~1990)の描く舞妓像は、プンとそっぽを向いたような表情が印象的。広田は幼い頃に茶屋に出入りすることもあり、花街の女性の生活環境も知っていましたが、舞妓は人形のようで描く気にならなかったといいます。ところが、「都をどり」のポスターを依頼され、スケッチする中で、美しい舞妓が「水泳やスケートを自由に楽しみ、現代に生きる女性」であることを知り、がぜん病みつきになったそうです。等身大の、自立したひとりの女性として描かれる舞妓の姿には、それまでの男性目線の作品にはない清々しさを感じます。

現代アートの素材として自由に描かれる舞妓像も楽しい。植田学芸員は、「戦前の舞妓の描き手は多くが男性作家。舞妓像も理想化された聖女か、そうでなければ妖艶な女、という古典的な二分法の傾向が顕著でした。戦後に多彩な表現が現れ、重層的なイメージが加わり、舞妓は京都を代表する存在として確固たる地位を築いたのだと思います」と解説。

展覧会のフィナーレは毎年、そのデザインが注目される「都をどり」のポスターの原画群で華やかに締めくくられます。今なお、底堅い人気を誇る舞妓さん。これからどんな新しい造形が現れてくるのか楽しみです。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 岡部匡志)
特別展「舞妓モダン」
会期:2020年10月6日(火)~11月29日(日) 休館日=毎週月曜 ただし11月23日(月・祝日)は開館
会場:京都文化博物館(京都市中京区)
開場:午前10時~午後6時(金曜日は午後7時30分閉館。入室は終了の30分前まで)
入場料:一般1500円、大高校生1100円、中小生500円
※詳しくは同館ホームページへ。
京都文化博物館
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