◆酒のつまみに辛くて香ばしい枝豆
【材料】
枝豆 1袋(250g)
塩(茹でる用) 大さじ1
湯 適量
ごま油 大さじ1弱
塩(味つけ用) 小さじ1
赤唐辛子(種を取る) 30本
ミックスナッツ(砕く) 適量
【作り方】
枝豆はさっと水で洗ってざるにあげ、茹でる用の塩をまぶして、ざるの網目にこすりつけるようにして下処理する。たっぷりの湯で3分間茹でて、また、ざるにあげておく。鍋に唐辛子を加えて乾煎りし、ナッツを加えてさらに乾煎りし、ごま油と枝豆、味つけ用の塩を加えて、ざっと混ぜ合わせる。
いつまでたっても蟹が好きになれないのは、食べにくいからだ。
甲羅や殻を割りながら身をほじくり、黙々と口に運ぶ行為は苦行のよう。手は汚れるし、指はつりそうになるし、たまにとんがった部分が刺さったりして痛い。一連の“手続き”を乗り越えなければ、あのおいしさは味わえないのだ。誰か代わりにやってくれないだろうか。
冒頭から季節外れな食材の話を持ち出したのには訳がある。夏に旬を迎える枝豆をつまみながら、「この枝豆は、蟹とは違うんだよな」と思ったからだ。
もし誰かに皮をむいてもらった枝豆がどっさり小鉢に盛られていて、スプーンを手渡され、「さあ、好きなだけどうぞ」なんて言われたら、げんなりしてしまう。
「枝豆っつうのはさ、そういうもんじゃないんだよ」と説教を始めてしまいそうだ。茹でたり、焼いたりした枝豆を皮ごと口に運び、指先でぎゅっと押し出して食べる。寝ぼけていてもできそうな単純作業には、なぜか繰り返す楽しみがある。
まだ暑さが残るこの夏に、枝豆をつまみに冷えたウイスキーのソーダ割りなんかをゴクゴクとやる幸せは、自分でむくという手続きとセットなのである。
調理をするときは、洗って塩もみして、うぶ毛を取る下処理は欠かせない。場合によっては、さやを切り落としたりすることもある。そこまで丁寧にしようとするのは、そのまま口に運ぶものだからだろう。茹で時間は長すぎたら、まずくなる。さっと茹でてパッとざるにあげ、ゆらゆらと立ち上る湯気を見ながら余熱で火を通していくくらいがいい。
そのまま塩を振って食べるのがシンプルでうまいのだけれど、酒のつまみにするなら、ちょっと香りをつけたくなる。唐辛子を乾煎りしてナッツやごま油をまぶして……。グラスを片手にキッチンに立ってしまった日にはたまらない。
枝豆については、昔からずっと疑問に感じていたことがある。
枝豆とは、どこからどこまでが枝豆なのだろうか? 僕が丸坊主で袈裟でも羽織っていれば、禅問答をけしかける和尚さんのようにも映るかもしれないが、素でこの問いを誰かに投げかけたら、白けた顔をされるだろう。
「は!? 何言ってんの?」
「いや、だから、枝豆というのは、どこからどこまでが……」
「枝についてる豆なんでしょ。全部、枝豆よ」
「でも食べるのは、内側の豆のところだけだろう? 外側の皮は食べない」
「当たり前じゃない!」
お互い酔っぱらっていたらケンカになりそうだ。
僕が興味を持っているのは、枝豆のどこまでを味わうべきか、という問題についてである。塩でもんだり塩で茹でたりしても、豆の中まで塩味がつくわけではない。それでも塩が欠かせないのは、豆を食べるときに外の皮の一部分も口に入れるからだろう。場合によってはチューチュー吸ったりするとおいしい。
もっといえば、スナック菓子なんかと同じように、途中で指先をなめたりすると塩気や風味があっておいしいのだ。すると、僕が枝豆を食べるときに味わっているのは豆だけでなく、豆の外の皮であり、それを触った指先であったりするのだ。
じゃあ、枝豆はどこからどこまでが枝豆なんだろうか? はなはだ難解な問いである。このことについて真剣に考える僕は、そう、立派な哲学者である。
ある素材をその素材以外のところまで味わうというのは、実は、意外と他でもやっている。たとえば、四川料理の「辣子鶏」。唐辛子から鶏肉のから揚げをほじくりだして食べるあの料理で、唐辛子をバクバク食べる人はいない。でも鶏肉は、よけたはずの唐辛子の風味をまとっている。枝豆を調理して枝豆だけを食べているうちは、「まだまだ甘ちゃんだね」ということかもしれない。
最終的に胃袋にしまい込むのは豆そのものだが、あの素材は、外の皮にどんなフレーバーをつけるのかで別の楽しみを持った料理へと進化するのだ。唐辛子やナッツ、ごま油、塩で風味をつけたこの枝豆料理は、2次利用できるのも気に入っている。食べ進めていくとたいてい、香りのいい唐辛子や味の濃いナッツが余る。
そこから第2回戦のスタート。新たに枝豆を茹で、今度は豆だけを取り出して余ったナッツたちと混ぜ合わせたりすると、おかわりができちゃうのだ。
枝豆とは何か。枝豆料理とは何かを考えるのは面白い。でも、やりすぎると酒がまずくなりそうだな。