NHKの「おかあさんといっしょ」で「歌のおにいさん」として人気だった横山だいすけさんの曲「あたしおかあさんだから」の歌詞が、ネット上で批判を浴び、作詞した絵本作家・のぶみさんと横山さんが謝罪する事態になりました。
歌詞は、「おかあさんだから」と子どものために母親が我慢する様子を描いた内容です。ツイッターでは反対に「#あたしおかあさんだけど」やりたいことを我慢しないというつぶやきが広がっています。はるかぜちゃんこと春名風花さんが反論の歌詞「おまえおとうさんだろ」をブログで発表したり、昨年秋のロバート秋山さんが出演したグリコのCM「マイクロズボラ」が、理想の姿とのギャップを肯定していると、再び脚光を浴びたりもしています。
「昭和のおかあさん」だったらアリだったかも!?
でも、この「あたしおかあさんだから」という歌、いっそのこと昭和のお母さんの話にしてしまい、昭和のお母さんはこうだったんだよ、というような「過去を振り返る形」であれば、歴史の勉強の一環としてアリだと思いました。
例えば、話が飛ぶようですが、娼婦を描いたパブロ・ピカソの代表作「アビニョンの娘たち」(1907年)も、今は「#Me Too」の流れの中で「いかがわしい」という見方も出来るのでは、とドイツの新聞「ディー・ツァイト」がオンライン版のコラムで疑問を投げかけています。実際に、画家バルテュスの「夢見るテレーズ」(1938年)に関しては、少女の下着が見える作品はいかがなものかと、昨年末に展示をしているニューヨークのメトロポリタン美術館に絵を外すよう求める署名活動が展開されました。
時代とともに変わる価値観
昔は今より男性社会でしたから、昔の作品としては「アリ」だったものでも、近年の感覚では「アウト」だという作品は数多くあります。さだまさしさんのヒット曲「関白宣言」(1979年)にしても、今の時代だったら……と思います。
「あたしおかあさんだから」も、いっそのこと昭和の話にしてしまい、例えば、サザエさんのように、明らかに昭和の時代のお母さんだとはっきり分かる形で発表されていれば(たとえば、NHKの朝ドラの主題歌とか?)よかったのでしょうが、「現在進行形のお母さん」として発表されたのは、やっぱりまずかったかと思います。
歌詞に登場する「(おかあさんになるまえ)立派に働けるって強がってた」という価値観も、「(子供を持ってからは)走れる服着るの パートいくから あたしおかあさんだから」という感覚も、昭和の時代の話であるならば、あまり違和感はありません。むしろほのぼのする感じです。
でも今の時代は、出産した女性が企業で正社員として働き続けることが難しい、といういわば国の政策の失敗を「お母さんの苦労」の話として美化して終わらせているところにモヤモヤが残ります。
チェックする側に「おかあさん」は含まれていたか?
実は歌詞そのものよりも、この歌が世に出る前に、「今の時代、これはまずいのでは?」と警告してあげる人はいなかったのか、という点がもっとも気になりました。
作品が世に出るまでに、いろんな組織の、いろんな人が目を通しているはず。そこで「待った!」がかからなかった、ということは、「チェックをする側に子育て中の女性があまり含まれていなかったのでは?」「もしかしたら、彼女たちの声がスルーされたのでは?」と想像せずにはいられません。
作品は当事者ではないと作れない?
立場にこだわらず、いろんな人が自由に作品を作れることは何事にも代え難いことです。「当事者」(この場合は「お母さん」)でないと作詞をしてはいけない、となるとずいぶん不自由な世の中になってしまいます。
でも当事者ではない人が何かを表現するとき、気をつけなければいけない部分はあるかと……。とくに感動が伴うべきところは、本当に当事者がそれを見て・読んで感動できる内容なのかを再考したいところ。
「当事者ではない自分の想像に、もしかしたら限界はあるかもしれない」。-そういったことを考えていく良いきっかけなのではないかと思います。