月をめでる日本のこころ

たび小町(PR)

 日本の神話には、太陽神の天照大御神あまてらすおおみかみ須佐之男命すさのおのみことの兄弟にあたる「月読命つきよみのみこと」という月の神がいます。「月読」とは「月を数える」ことからきており、農業で大切な暦と関係があることから農業の神様ともされていました。月見のお供えものは、月読命に対して豊作を感謝する行為だという考え方もあるようです。月読命は伊勢神宮や京都の月読神社、山形の月山などにまつられており、日本人は古くから月を崇めてきたことが分かります。

 今年の中秋の名月は924日。日本人の月をめでるこころを知り、夜空を眺めれば、その輝きの美しさをより深く味わえることでしょう。

「満月」を望む 詩歌管弦の宴 風雅な月を名に残す

 平安時代の日本の貴族は、大陸から伝わってくる文化や芸術をこぞって取り入れていました。中秋の名月を眺める文化も中国から伝わり、貴族の間に広まります。しかし、彼らはただ月を眺めるだけにとどまらず、より優雅で風流に月を楽しむことを求めました。宴を盛んに行っていた当時の貴族は、中秋にも詩歌管弦しいかかんげんの宴を開くようになります。

 例えば京都の下鴨神社。おごそかな雅楽にのって舞楽を奉納し、貴族は名月を楽しんだといいます。この宴は現在も「名月管絃祭」として中秋に行われ、多くの人で賑わっています。

 同様に毎年「観月の夕べ」が催される京都の大覚寺・大沢池。こちらも平安時代より行われていた詩歌管弦の伝統を持っていますが、注目すべきは大沢池そのものです。驚くことに嵯峨天皇はその身分ゆえ、天を仰いで月を見るのではなく、舟を浮かべて池に映る月を楽しむために近くの滝から水を引き、この池を造ったといわれています。

 大沢池は日本最古の人工林泉(林や水泉などのある庭園)であり、現在もほぼ当時のままの姿を残していて、1200年以上前に眺められていた光景が今も見られます。その大沢池から東へ徒歩15分ほどのところにある広沢池も月見の名所です。こちらも平安時代に多くの貴族が月を眺めに訪れたといわれています。

大覚寺・大沢池。「観月の夕べ」ではさまざまな催し物が行われ、夜遅くまで賑わう

 ところ変わって奈良の猿沢池は、小ぶりではあるものの、興福寺五重塔が望める風情のある池です。中秋には「采女うねめ祭」という雅楽の調べとともに舟で池をめぐる、雅びやかな祭りが行われます。貴族の間では、月をめでては美しい詩歌を詠むこともはやりました。貴族にも名の知れた西行法師も「花と月の歌人」といわれるほど月をこよなく愛しており、『百人一首』には「嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」という、恋に悩んで流れる涙を月のせいにしてしまう悲しみの歌が選ばれています。

 月の美しさをきっかけに名付けられた地名もあります。群馬県の月夜野もそのひとつ。一説によると、中秋に歌人の源順みなもとのしたごうがこの地を通り「よき月よのう」と感銘したのが由来だとか。

 また、京都・嵐山の渡月橋も月から名が付きました。鎌倉時代、亀山天皇が満月の晩に舟遊びをしていたとき、月が橋の上を渡るように見えることから「くまなき月の渡るに似る」と詠み、そこから「渡月橋」と呼ばれるようになったといわれています。

「名月」を極める 松本城の月見櫓と「桂」の地

 戦国の永正年間に深志城ふかしじょうとして築城された松本城。黒と白の外観に、朱色の欄干が目を引く月見櫓など五棟から成る連結複合式天守が特徴的な国宝城郭です。戦国末期の戦略拠点として、鉄砲戦への強固な構造をもった大天守・渡櫓・ 乾小天守に対し、約40年後の江戸時代初期に造られた辰巳附檜・月見檜の2棟はほとんど武備がありません。戦国仕様の天守と太平の世ならではの櫓が同居する、珍しい天守構造です。

 辰巳附檜・月見檜を築造したのは1633年に城主となった松平直政(徳川家康の孫)。善光寺参りの将軍家光を迎える目的で造られ、従来の城とはまったく違った風雅な雰囲気を備えることになりました。とくに月見櫓は、朱の漆が塗られた回縁や船底形の天井など書院風の造りが優雅な趣を醸し出しています。北・東・南の三方が広い開口部となっているのも特徴的です。直政以降の城主たちは、この開放的な畳敷きの部屋から昇る秋の月をめでたのでしょう。

漆黒と白漆喰の城壁に映える朱色の欄干が配された月見櫓の松本城

 松本城の月見櫓普請より20年ほど前、八条宮智仁親王が京都・桂川沿いの地に造営したのが、桂離宮です。日本の庭園建築史上の傑作であると同時に、ここは究極の名月観賞の舞台でした。中心施設である書院群は当時の建物に比べかなりの高床で、軒は短く切り詰められていました。これは月の出をいち早く望め、また天に昇った月を遮られずに眺めるための工夫です。それら建物のすべての正面が、創建年とされる1615年頃の中秋の月の出の方位を向いているともいわれています。

 古書院・月見台から真正面に捉えたと思われる名月が、親王の残した和歌の数々に詠まれています。桂離宮のある桂地方は、古くから月の名所で知られた地です。「桂」とは中国の伝説上の「月に生える木」のことで、それにちなんだ地名といわれています。平安中期に栄華を極め「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の……」とうたった藤原道長もここに別荘を建て、観月のための楼閣もあったといわれています。高知の桂浜も、古くは勝浦浜などと呼ばれていましたが、月が美しく見えることにちなみ、土佐藩5代藩主の山内豊房が「桂」の字を当てたと伝えられています。

「月待ち」を楽しむ 月の出を待ち深夜まで大賑わい

 上流階級のものだった月をめでる文化が、庶民に浸透したのは江戸時代のこと。その時代、人々が集まって飲食などしながら深夜まで月の出を待つ「月待ち」が盛んに行われていました。十五夜や十三夜だけでなく、十七夜(月の出が早いので立って待つ「立待月たちまちづき」)、十八夜(月の出がやや遅いので座って待つ「居待月いまづき」)、十九夜(寝て待つ「臥待月ふしまちづき」)、二十夜(夜更けの「更待月ふけまちづき」)などがあり、庶民はこの時とばかりに大いに宵っ張りを楽しみました。

 中でももてはやされたのが二十六夜待ち。夜半過ぎに出る二十六夜月は、姿を現す瞬間に月の両端、本体と3つに光が分かれてからすぐひとつになるとして、三尊(阿弥陀・観音・勢至せいし)の御来迎に重ねられたいわば信仰行事でもありました。江戸では、東に海が開けて月の出が見やすい高輪~品川宿界隈の海岸沿いが特に賑わいました。

月待の滝(茨城県大子町)。滝の裏側で二十三夜の月の出を待ち安産を祈願したといわれています

 江戸以外にも月待ちは全国で盛んに行われ、山梨県・道志どうし山塊さんかいの二十六夜山のように山上で行う月待ちや、川岸で立って待つ「瀬待ち」などもあったようです。こうした風習は派手を禁じた天保の改革以降、急速になくなっていきましたが、古くから夜に敬意を払い、じっと月の出を待ち、月明かりに神聖さを感じる意識は、現代の日本人にも引き継がれていることでしょう。

麓の村民が二十六夜の月待ちを行ったと伝えられる「二十六夜山」

 秋の夜長、空を見上げて、いにしえの日本のこころを実感してみてはいかがでしょうか。

【参考文献】
『月と日本建築 桂離宮から月を観る』宮元健次(光文社新書)
『月の名前』高橋順子、佐藤秀明(デコ)
『夜ふかしするほど面白い「月の話」』寺薗淳也(PHP研究所)

松本城の月見櫓を見に出掛けませんか 

※ツアーは終了している場合があります。