女子プロレス界の頂点にいたけれど、赤字を抱えて手が震えた。弱いな私、って

里村明衣子

 プロレスラーとしてリングに立ちながら、女子プロレス団体「センダイガールズプロレスリング(仙女)」を率いる里村明衣子さん。東日本大震災を乗り越え、本拠地・仙台での試合チケットが入手困難になるほど仙女の人気を高めた立役者だ。女子プロレス界の横綱とも呼ばれ、独特の存在感にひかれる女性ファンも多い。リング上の姿とはひと味違った、組織を率いる女性として里村さんの率直な思いを聞いた。

ポスター貼りに商店街回り、泣いたこともあります

 ――――仙台で里村さんの試合を見て、ファンの声援に圧倒されました。でも、2005年に団体をスタートした時は「女子プロレスって何?」という感じだったそうですね。

 新人募集のポスターを持って、一軒一軒お店を訪ねて「ポスター貼らせてもらえますか」と仙台の商店街を回りました。300枚ぐらいかな。当時は、女子プロレスがあること自体知られてなくて、「いま忙しいから」と突き返されて。なんだろう、この現実って思って、スーパーのトイレで泣いたこともあります。でも、何度も行くうちに顔を覚えてもらい、応援してくれる人が増え、メディアが取り上げてくれて、おかげさまで今は安定的に興行できるようになりました。

 ――――そもそもなぜプロレスラーに?

 14歳の時に姉に連れられて故郷の新潟で初めてプロレスの試合を見ました。男性の新日本プロレスで、ルールもわからなかったけれど、花道を歩くレスラーがすごく光り輝いて見えた。その後にトークショーでレスラーが修業を重ねて強くなる話や、テレビで長与千種さんが女子プロレスの新しい団体を作るという話を聞いて、「これだ!」と。子供のころから強くなりたくって3歳から柔道を習っていたんです。自分の気持ちと進みたい道が一致しました。

リングの上の里村さん(左)(報知新聞社提供)

 ――――クラッシュ・ギャルズとして一世を風靡ふうびした長与さんが作った女子プロ団体「ガイア・ジャパン(GAEA JAPAN)」の1期生ですよね。家族には反対されませんでした?

 身長が低く、柔道でも48キロ級と軽かったので、レスラーになんてなれるはずがないって言われました。体の小さい男性レスラーが1日3000回スクワットをやると聞いて猛練習して、翌年夏にオーディションを受けた時には毎日1000回以上できるようになっていましたね。その時のほかの受験者が100回もできずに脱落していく姿を見て、「プロレスラーなめんな」と腹が立って(笑)。面接でも体が小さいと言われましたが、「今回落とされても何回でも受けに来ます」と言ったら合格したんです。親もそれから応援してくれるようになりました。

 ――――入門してデビューした1995年は、ルーズソックスやプリクラ(プリントシール)が大流行した年。そんな時に合宿所に入って、厳しい練習をし、長与千種さんの付き人も。同世代がうらやましくなかったですか。

 厳しさも自分にとっては当たり前だと思っていて、うらやましくはなかったですね。長与さんの付き人は7年やりました。練習着の洗濯から試合道具、財布の管理まで任されるんです。長与さんは本当に大スターで、礼儀や恩義にも厳しい人。私は世間知らずなので実は10回ぐらいおろされているんですよ(笑)。でも、後輩が40~50人ぐらい辞めて、(2001年に)チャンピオンになってもまだ付き人をやっていました。入門者が減って、昔なら新人がやるべきリングの設置などの雑用をして、観客数も減ってきた。こんな状態で自信をもってチャンピオンと言えるのか自分でも葛藤がありました。

東日本大震災で事務所全壊、多難の代表就任

試合道具はキャリーケースに入れて自分で運ぶ

 ――――2005年にガイア・ジャパンは解散して、「みちのくプロレス」の新崎人生さんと仙女を設立することになります。新崎さんから代表を引き継いだのは東日本大震災後の2011年7月。不安はなかったですか?

 事務所が全壊して、練習場所もなくなり、興行もストップ。スタッフも辞めていった中で、私が引き継がなければ解散になっちゃうなと思って。ほかの選手たちはすごく冷めていました。

 でも、私はバラバラになるのがすごく嫌で。地元のみなさんに何年も応援してもらったものをいきなり解散にするわけにもいかない。被災地を訪ねた時に、仕事も家族も失った避難所のリーダーが笑顔で私を迎えてくれて、みんなをまとめている。それを見た時に自分がしょげていちゃいけないな、と、いろんな思いが湧き上がってきた。

 それで、家賃3万円のアパート借りて事務所にして、選手のみんなには、とにかく一つ興行を成功させるから見ていてと言った。秋に東京で大会を開き、そのお金で道場を確保することができたんです。

 ――――ゼロからのスタートですよね。

 私にはなんのノウハウもなかったので、会場の押さえ方からチケットの委託先まで、他団体の人に電話をかけて聞きまくりました。プロレスでチャンピオンになって業界のトップにも立って、強いと思っていた自分が、興行で大赤字を出して、会場代や選手のギャラも支払えなくなった時には、怖くて手が震えた。自分ってめちゃくちゃ弱いって思いましたね。

 今思えば、宣伝も行き届かず、計算もしていなかった。その時に本当に恥ずかしい、こんな思いは絶対抜け出したいと思って、失敗の要因を分析していきました。自分の使命感だけで続けて無理するより、どうすればビジネスとしての女子プロレスを盛り上げていけるか今も考えています。

 ――――一時は二人まで減った選手が、今は選手5人、スタッフ1人の体制です。今の若手は里村さんが新人のころとはずいぶん違う環境ですよね。

 有望な新人がいると聞けば九州まで何度も足を運んで、話をして、仙女に入ってもらいました。今の若手はSNSも含めてセルフプロデュースがとても上手です。私が若い時のように、厳しい規則でがちがちに縛って自由を奪って育つ時代ではないです。付き人も廃止して、旗揚げ3年目で恋愛解禁にしました。

 私はプロレス一筋で来て、20代に恋愛経験や楽しかったことがなかった。好きでプロレスをやってきて充実していたけれど、後輩レスラーの仙台幸子が結婚すると聞いて正直喜べない自分がいた。でも、人それぞれに幸せがあり、その道をちゃんと祝福してあげる気持ちにならないと、女子プロレスは変わらないなと思ったんですよね。

40歳で一人だと悔いが残る?そんな悩みが自分にも来るなんて

 ――――里村さんの夢は?

 2020年、40歳の時に、日本武道館で女子プロレスの大会を開きたい。その場に立ってその光景を見たいって思っています。

 プライベートでは……結婚したいです! けれど、まったく予定のない状態でして(笑)。究極の一人好きなんで、そういう機会がなくて。37歳という年齢になって、後輩のレスラーが赤ちゃんを出産すると聞くと、40歳で一人だったら悔いが残るんじゃないかと思ったり。自分にはそんな悩みは絶対こないと思っていたんですけれども。

 あとは、現役の選手として、お客さんの心に残る名勝負をしたい、やり残したことがいっぱいあるという思いもあります。若手が実力をつけてくる、その力を対戦して感じていたい。

 プロレスを通じて、お客さんと意思が通じ合って会話をしている気分になれる。対戦相手とも、互いにつぶしあうんじゃなくて、生きているぞというエネルギーを感じるんです。そうすると体は痛いんですけれど、次も、次もって思っちゃうんですよね。

 ――――同年代の女性へのエールを。

 自分がやりたいと思ったことはやった方がいい。後輩の面倒をみる立場になって、自分が一番充実して幸せを感じられるからこそ、人に教えることもできると思っています。自分が充実していないと、私、がみがみ怒ったりしてしまうので。満たされた状態でちゃんと後輩のことを判断して、ものを言えるようになりたいと思っています。

仕事のお供
衣装や試合道具を入れて持ち運ぶキャリーケース。ラスベガスで買いました。体に厚みがあるので、服はアメリカに行った時にまとめて買ってきます。今日の服も、アメリカで買ったんですが、日本でも同じものを見つけたと後輩に言われました。

(聞き手:大森亜紀、写真:中村光一)

里村明衣子(さとむら・めいこ)
プロレスラー 157cm、68kg。1979年11月17日、新潟市生まれ。クラッシュ・ギャルズの長与千種さんが旗揚げしたガイア・ジャパンのオーディションを受けて1期生となり、1995年4月、史上最年少の15歳でデビュー。2001年にアジャコングからAAAWシングル王座奪取。05年7月に「みちのくプロレス」の新崎人生さんに誘われてセンダイガールズプロレスリングを設立。11年7月からセンダイガールズプロレスリング代表。15年のデビュー20周年には記念切手も発売された。