ショートケーキ、シュークリーム、卵焼き、ポテトサラダ‥‥。誰もが「大好き!」と顔をほころばせるであろうこれらの食べ物のことが、私はあまり好きではありません。「嫌い」とまではいかないのだけれど、決して自分から進んで手を伸ばすことはなく、それらを一生口にできなくても、何ら痛痒は感じない。
ショートケーキが好きではないことによって、子供の頃は苦労したものです。友達の誕生会に行くと、バースデーケーキはたいてい、苺のショートケーキ。
「わぁ!」
などと喜んだ顔をして、生クリームたっぷりのケーキを平らげなくてはならないのが、つらかった。
皆が好きなものが好きではないなんて、ひねくれているのでは? ‥‥という意見がありましょうが、確かにそれはその通りなのでしょう。数ある料理がある中で、
「中華料理が一番好き!」
となるのも、その手の性質が関係しているのかも。
ムチ感とカリ感の共演
しかしそんな私にも、「みんな大好き、私も大好き」な食べ物はあって、その一つが餃子です。中華料理好きを公言していると、
「中華の中では何が一番好き?」
と聞かれることがしばしばありますが、その時は迷いなく、
「餃子!」
と答えることにしているのです。
マイ・ファースト・餃子は、ご多分にもれず、母親が作ったものでした。市販の皮で作るごく普通の餃子でしたが、大量に焼いた餃子がみるみるうちになくなっていく様子が、楽しかった。
そんな私の餃子愛をさらに開花させたのは、大人になってから、とあるお店で食べた餃子です。おいしいものに詳しい友人たちが、
「素晴らしい餃子があるから」
と連れていってくれたのは、幡ヶ谷の「N」という中華料理店。色々な料理がメニューには載っているけれど不動のメインは餃子、というお店です。
焼き餃子と水餃子をオーダーすると、我々は「餃子の何を愛するか」という話になりました。それまであまり考えたことがなかったのですが、もしかすると自分は、酢醤油の媒介としての餃子を愛しているのかもしれない、という思いに至った私。別の人は、
「僕はビールを美味しく飲むために餃子を食べる」
と豪語しますし、野菜好きの女性は、
「私はやはり、ニラの才能を最も生かすことができる料理が、餃子ではないかと思います」
と、つぶやきます。
そんな中で、以前から「N」に通っている人の言葉に、私は衝撃を受けました。彼は微笑を浮かべながら、
「餃子はね、皮を食べるために存在する食べ物なんですよ」
と、言うではありませんか。
市販の薄い皮を使用することが多い、日本の餃子。対してテーブルに運ばれてきた「N」の餃子は、粉から皮を作ります。一つ口に運んでみれば、ムチムチで食べ応えのある肉厚の皮は、お色気満点。皮の食感に負けじと、中の肉や野菜も粗く刻んであって、両者が呼応し合っているのです。
中国では、餃子といえば水餃子であり、余った水餃子を焼いて食べるのだ、という話を聞いたことがあります。「N」の焼き餃子も、一度ゆでたものを焼いているので、ムチ感とカリ感が、私の大好きな油によってひとまとまりに。
「こ、これは‥‥」
とその味に瞠目していると、
「でしょう?」
と、「餃子は皮」と断言した人は、ニヤリと笑いました。
官能的な完全食
その時に私は、水餃子の魅力にも初めて目覚めたように思います。一枚一枚、めん棒で伸ばした皮は、周縁部は薄く、中央部はもっちり。つるりと口に放り込めば、微妙に厚さの違う皮がそれぞれのやり方で舌を撫で、噛みしめれば一気に肉の味が広がっていく。‥‥という、何とも官能的な食べ物なのであり、
「この魅力は、子供にはわかるまい」
と、私は思った。油が取り持つムチ感とカリ感の共演はわかりやすい美味しさだけれど、水餃子はもっと深いところに人を連れて行ってくれるのです。
気がつけば餃子ばかりを何皿も食べ続け、わんこ餃子状態となっていた我々。周囲の人も皆、取り憑かれたように餃子を連続して食べています。野菜と肉と炭水化物、全てを取ることができる完全食の餃子を食べていれば、他のものを食べる必要を感じなくなるのかもしれません。皮がしっかりしているが故に、餃子をおかずにご飯を食べるという発想はなくなるのです。
その日は私にとって、餃子の皮の魅力、そして水餃子の魔力に初めて気づいた、“餃子の成人式”でした。スナック感覚で食べるチェーン店「O将」の餃子も、好き。‥‥だけれど、皮から作った餃子はまた別物の美味しさであり、私は早速、自分でも作ってみることにしたのです。
粉を扱い慣れない私にとって、強力粉は手強い相手でした。中国北部では、旧正月の大晦日の夜に家族総出で餃子を作ってお正月に食べるのだと言いますが、お正月のご馳走として位置付けられるのもわかる、大変な作業です。
しかし完成した餃子は、「よくやった、自分」の気分も含めて、たいそう美味しかったのでした。あまりに大変だったので、その後は自分では作らず、もっぱら「N」へと食べに行っているのですが、皆と餃子の美味しさを分かち合う度に、「私、そんなにひねくれていないのかもしれない」と思うことができるのでした。