北京ダックのように輝く子豚の丸焼きがもたらす祝祭感

酒井順子・ずっと中華が好きだった

足かけ20年ほど、中華料理を習っていました。実は中華料理ばかりでなく、気がつけば卓球や書道(それも漢字)も習っていた私は、前世において、中国と何らかのご縁があったのかもしれません。

そもそもは友達のお母様が習っていたことから、友達に誘われて月に1回ほど通い始めたのが、中華料理の教室でした。 

「そんなに長く習っていたのなら、さぞや上手なのでしょうね?

と問われることもあるのですが、教室での社交、そして習うことより食べることが楽しくて通っていたところもあり、料理の腕の方は、まったくもって自信がありません。家で作る場合は、入手が容易であまり高くない素材を使用し、簡単に調理できるメニューに限定されたので、レパートリーはさほど広くないのです。

先生は、戦前の大家のお嬢様。日本生まれの日本人ですが、ご実家のお屋敷に中華料理の料理人がしばしば来ていたので中華好きになった、という経歴をお持ちです。ご自身のキッチンスタジオには、コレクションであるアンティークの中華食器がずらりと並び、中国マダムのお宅にいるかのような雰囲気が、すてきでした。

そのような先生ですので、普段は物腰も話し方も非常におっとりしていらっしゃるのですが、料理をする時は、人格が変わりました。中華料理は火力とスピード感が大切ですから、多少の熱さや油はねなどものともせず、鋭い表情で蒸籠せいろうをつかんだり鍋を振ったりしていたのであり、そのギャップが格好よかった。

料理の先生と香港へ

中華料理の世界では大ベテランの先生でしたが、常に新しい料理をキャッチアップするために、香港へもしばしば通っていらっしゃいました。時には生徒達も随行することがあり、私も2度ほど、ご一緒する機会があったのです。

とはいえその旅は、現地集合・現地解散。参加したい時だけ食事に参加するという気楽なものでした。そんな中でも皆が集まるメインイベントが、高級広東料理店であるF酒家でのディナーです。何を食べてもおいしいのですが、中でも心待ちにしていたのは「乳猪」、すなわち子豚の丸焼き。

子とはいえ豚の丸焼きですから、少人数向きの料理ではありません。ある程度の人数が集まらないと食べることができないのであり、それは先生と一緒に香港に行った時だけのご馳走でした。

なりふり構わぬ欲望

中国ではお祝いの時に食べるものだという子豚は、北京ダックのように香ばしく焼き上げてあります。黄金色に照り輝く子豚がワゴンに載せられてしずしずと登場すると、我々からは、

「わぁ!

と歓声が上がります。

子豚は、アジの干物のように腹側から縦に開かれており、かなりリアルな豚感を漂わせているのでした。日本でお祝いの時に食べるものと言ったら、尾頭付きの魚、それもたい、ということになっています。切り身ではなく尾も頭もついていますよ、というところに祝祭感が表れるわけです。

しかし子豚一匹からは、もっとなりふり構わぬ食に対する欲望、のようなものがにじみ出ている気がするのでした。おいしいものであれば何でも食べてやろうじゃないか、というガッツとでもいいましょうか。

数ある料理教室の中から、あえて中華の教室を選んだ我々もまた、同じような感覚を持っているのでしょう。リアルな子豚の姿に目を覆う人はおらず、聞こえてくるのは子豚を写真に収める音、そして、

「おいしそう!

「すごい!

という声ばかり。

子豚もまた、北京ダックと同じく、最もおいしい部分は皮なのです。パリパリに焼きあがった皮を薄いパンにのせ、ピクルスのようなものをトッピング。お好みでお砂糖をパラリと撒いて口に入れると、パリッ、さくっ、ふわっという食感と、甘さと油分と酸味とが口の中で渾然こんぜんとなり、交響楽が鳴り響くかのよう。特に何かのお祝いをしているわけではないものの、おめでたい気分が盛り上がってきます。

中華というのは、このように大勢で食べることによって、より盛り上がる料理でもあるようです。一族の結束を大切にする中国の人々であるからこそ、大勢で食卓を囲むことを大切にしているのでしょう。我々は血族ではないものの、中華料理に対する愛を同じくする者たちの集まりとしてあっという間に子豚を平らげ、さらに勢いに乗って食べ進めていったのでした。

‥‥と懐かしく思い出を反すうしている私は、しばらく子豚の丸焼きを口にしていません。最後にF酒家で子豚を食べてから数年がたちましたが、その頃と比べ、香港の様子はだいぶ変わったようです。さらには新型コロナのこともあって、しばらく香港へ行くことはかなわないでしょう。

そして長年お世話になった先生は今年、八十六歳で天に召されました。この先、子豚の丸焼きを食べる機会はもう来ないのかもしれないと思うと、寂しさが募ります。しかし先生から教わった、美味しいものを作って食べることへの意欲は、今も私の中にしっかりと残っている。お稽古はもうないけれど、料理教室の友人と会う場所はやっぱり中華料理のお店なのであり、

「このお店、先生もきっとお好きなはず」

などと、語り合っているのでした。

あわせて読みたい

酒井順子
酒井 順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト

高校在学中から雑誌にコラムを発表。大学卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。「負け犬の遠吠え」で講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。11月に「ガラスの50代」(講談社)を出版。