凝縮されたうまみを存分に味わう トマトペースト

水野仁輔のスパイスレッスン51

 友人からのメールの文面に気になる言葉があった。
 「最近、心に余裕がなくて……」
 つぶやきのようでもあるし、独白のようでもある。何が原因かは知らないけれど、彼女は余裕がなくて料理ができず、外食ばかりになっていることが気になっているようだ。
 意識が高い! 料理なんてものは、やりたいときにやって、やりたくなければやらなきゃいい。外食ばかりが気になるのなら、パンでもかじったり、ご飯に塩でも振ってぱくついたり、袋ラーメンでも……、というわけにもいかないか。男子中学生じゃあるまいし。
 冷蔵庫をのぞくと、トマトがふたつ。そういえば、少し前に安売りしていたのを買ったんだっけ。たとえば、このトマトが心に余裕のない彼女を救えやしないだろうか。それで思い出した料理がある。早速、にんにくとしょうがを手に取って包丁の腹でつぶし、少量の油とフライパンに放り込んだ。
 トマトは半分に切って、断面を鍋底にくっつけるようにして並べ、強火にかける。そのままキッチリ焦げ目がつくまで焼いていく。ジュージュー、パチパチするトマトを見つめながら考えた。心に余裕がないって、いったい何が原因なんだろう。

 仕事でつらいことがあったとか、思うように事が運ばず自己嫌悪に陥ったとか、日常生活でイライラがまっているとか……。そんなときは、ストレスをこのトマトにぶつければいい。音を立て、油を跳ね上げて焼かれていくトマトを触らずに放置し、さらに焼いていく。「焦がさないように丁寧に」なんて気をつける必要はない。むしろ、わざと黒く焦がしてしまうほうがおいしくなるからだ。
 トマトは加熱すると中から水分がにじみ出始めるから、大胆に焼きつけても、真っ黒こげにはなりにくいから心配しなくていい。きっちりと焦げ目がついたころには、トマトはかなり煮崩れているはずだ。

 裏返して今度は皮面を焼いていく。料理をする気にならないのは、いくつかの手順を踏まなければならないからだ。心に余裕がないときに、キッチンに立って複雑なプロセスをこなす気は起きないだろう。


 その点、トマトを焼くという行為は、きわめてシンプルでいい。単純作業を延々と続ければ、徐々に気持ちが落ち着いてくる。皮面にこんがりと焼き色がついたころには、トマトはほとんど原型をとどめないほどつぶれているはず。そうしたら、塩をふり、鍋の中身をすべてすり鉢へ移す。
 この料理は、今年の2月にネパールのレストランで教わったアチャールというものだ。アチャールというのは漬物に似たお総菜の総称。ネパールでは、カレーや豆煮、ライスなどと共にさまざまな野菜、フルーツのアチャールが少しずつ盛られて提供される。決してメインにはならないが、油のうま味と塩味が利いていて、しっかりとしたうまみがある。ちょっと足りない部分を満たしてくれる味。まるで心の隙間に染み渡っていくような気の利いた料理だ。
 いくつも教えてもらったアチャールの中で、最も印象に残っていたのが、このトマトのアチャールだった。シェフは、「これはオールドスクールなんだ」と得意げで、僕はそれを聞いてカッコいいな、と思ったことを思い出す。昔ながらの手法が今に伝わる伝統の味である。

 できあがったトマトペーストを味見すると、覚えたばかりのあの味がしてうまい。にんにくとしょうがが、立派なスパイスだったことを改めて実感する豊かな風味である。辛くしたければトマトと一緒に唐辛子を焦がせばいいし、フレッシュな香りを強めたかったら生の香菜を焼いたトマトに合わせてペーストにすればいい。
 すり鉢がなければミキサーを使ってもいいし、何ならすりつぶさないまま完成にしてもかまわない。とにかく凝縮されたトマトのうま味と焦げの利いた香ばしい風味は万能の調味料となる。パンに塗ってもご飯にのせてもおいしくいただける。
 この料理のレシピを彼女に送ることにしよう。返事を書こうとして、少し前のメールのやりとりを振り返ると、こんなコメントがあった。
 「この間、イチゴ狩りで死ぬほどイチゴを食べてしまい、シーズン早々にイチゴに飽きてしまったので……」
 2週間ほど前に呑気のんきにイチゴ狩りをしていた人が、心の余裕を失うのだから、日々を過ごすこともなかなか容易ではないよなぁ。心に余裕のありまくる僕には、所詮しょせん、理解してあげられない感情なのかもしれない。ま、仕方ないか。僕は僕で袋ラーメンでも作って、トマトのアチャールをたっぷり混ぜて食べることにしよう。

◆万能トマトペースト・ネパール風
【材料】
 植物油 小さじ2
 トマト(半分に切る) 2個
 にんにく(つぶす) 1片
 しょうが(つぶす) 1片
 塩 少々
【作り方】
 鍋に油を敷いてトマトを断面を下にして並べる。にんにく、しょうがを加えて強火で焼きつけるように炒める。断面にこんがりと焼き色(ところどころに焦げ色)がついたら裏返し、皮面も同じくらいまでいためる。塩をふり、すり鉢に入れてつぶす。

水野仁輔
水野仁輔(みずの・じんすけ)
カレー&スパイス研究家

 1974年静岡県浜松市生まれ。99年に男性12人の出張料理集団「東京カリ~番長」を結成。各地で食のライブキッチンを開催するほか、世界のスパイス料理やカレーのルーツを探求中。著書は40冊を超え、近著に「水野仁輔 カレーの奥義」(NHK出版)、「スパイスカレー事典」(パイインターナショナル)、「いちばんやさしいスパイスの教科書」(パイインターナショナル)、「幻の黒船カレーを追え」(小学館)など。2016年にスパイスをレシピとともに届ける「AIR SPICE」を設立。