出張前の彼女の台所でクミン風味のキャロットラペ

水野仁輔のスパイスレッスンVol2

  誰かの家の本棚を見るのは楽しいが、誰かの家の冷蔵庫の中を見るのはちょっと躊躇ちゅうちょする。それが異性だったりしたらなおさらだ。見てはいけないものをのぞき見するような気分になって、ドキドキしてしまう。

 本棚にはその人の知性が見え隠れするが、冷蔵庫にはその人の生活がにじみ出るからなんだと思う。冷蔵庫の中に置かれた肉や野菜、調味料などから、ついどんな暮らしをしているかを想像してしまう。イケナイ、イケナイ。

 あるとき、女性の友人宅でカレーパーティをすることになった。もちろん僕はメインディッシュのカレーを作って持っていく。前菜はその場で作ればいいや、と思って、声をかけた。

 「冷蔵庫、開けるよ」

 「いいよ。あ、でも何もないよ。明日から長期間、出張の予定だから」

 「大丈夫、大丈夫。あるもので適当に作るから」

 冷蔵庫の野菜室を開け、僕は唖然あぜんとした。ニンジンが、1本。それ以外は見事に何もなかったのだ。生活がにじみ出るどころの話ではない。

 動じている場合ではない。まもなく仲間がやってくるのだ。

 僕はニンジンを千切りにし、ボウルに入れて塩を振った。

 小さめのフライパンをコンロに置き、クミンシードを加えて中火でり始める。ほんのり色が深まり、香りが立ってきたところで火を止めて、オリーブ油を注ぎ、余熱で油に香りをうつしていく。即席クミンオイルの完成。本当は、ひと晩くらい冷蔵庫で置いておきたいところだけれど。

 ニンジンの水分を絞る。オリーブ油のとなりにバルサミコ酢があったから少しだけクミンオイルに混ぜて乳化させる。小さな泡立て棒を混ぜながら、彼女と話す。

 「ずいぶんいいバルサミコを使ってるんだね」

 「オリーブ油とバルサミコだけはお金かけてるの」

 キッチンのバルサミコ酢にも生活が垣間見える。少なくとも冷蔵庫に残されたニンジン1本よりは雄弁だ。

  クミンというスパイスは、割と万能だ。これがひとつあれば、肉や野菜と一緒に炒めるだけでツンと心地よい豊かな香りを楽しめる。世界中で活躍しているのも納得できる。クミンを油につけておくだけ、というこの簡単クミンオイルはドレッシングの代わりになるし、加熱料理に使ってもいい。鷹の爪などのレッドチリとの相性もいいから、一緒に使うレシピもあるからそれはまた今度。

  彼女はあの1本のニンジンをどうしようと思っていたのだろうか。ウサギを飼っているような気配はなかったから、自分で食べるために置いてあったのだろう。翌朝、ニンジンにかぶりつく彼女の姿が一瞬、頭をよぎる。もしや、朝ごはん!? そんなワイルドな一面があるとしたら、ちょっと好きになってしまいそうだ。

 仮にそうだったとしても、もうこの料理を覚えたのだから、朝ごはんのレパートリーにニンジンが入る日は近いだろう。 

◆クミン風味のキャロットラペ
【材料】
ニンジン 1本
クミンオイル(作りやすい量)
・クミンシード 小さじ1/2
・オリーブ油 大さじ4
・塩 少々
【作り方】 ニンジンを千切りにし、ボウルに入れ、塩をふってしばらく置く。水分が出てきたら絞って、クミンシードを漬けこんだ油を混ぜる。好みで少量のバルサミコ酢(分量外)を加えるのもオススメ。

水野仁輔
水野仁輔(みずの・じんすけ)
カレー&スパイス研究家

 1974年静岡県浜松市生まれ。99年に男性12人の出張料理集団「東京カリ~番長」を結成。各地で食のライブキッチンを開催するほか、世界のスパイス料理やカレーのルーツを探求中。著書は40冊を超え、近著に「水野仁輔 カレーの奥義」(NHK出版)、「スパイスカレー事典」(パイインターナショナル)など。2016年にスパイスをレシピとともに届ける「AIR SPICE」を設立。